願望実現を叶えていたのは「他力」と呼ばれる大いなる力。
心のことに向き合い、浄化が進んでくると、この世の仕組み願望実現の法則が、心の深いところで分かる感覚が訪れます。
自覚のあるなし関わらず、年齢や立場に関係なく、自分の内面はすでに「智慧」に繋がっているということです。
外からの教えや情報にピンとくる場合も、それは元々あなたの内面にあったものが、外に現れたということの証です。
心のごみが浄化されてくると、エゴや他者の価値観(これもエゴの反映である場合が多いです)を見分けることができるようになってきます。
何か叶えたい願いがあるという時、私たちは普通は自分が頑張りますね。
勉強や仕事など。
本当に情熱の心から取り組む場合はそれはエゴからの動機からではなく、大いなるもの・真我と呼ばれる源に突き動かされた結果です。
幸せで満ち足りた「充足動機」の行動です。
逆に同じ勉強や仕事でも、将来のやお金に対する不安や恐怖、人に好かれたい、嫌われたくない、このような自分の身を守るための動機はエゴベースの「欠乏動機」の行動です。
欠乏動機の行動があったからこそ、ここまで文明が発達してきました。
エゴ・自我が「自分がやるんだ」と頑張って築き上げてきたものであり、私たち一人ひとりの生き方も似たような感じだったのだと思います。
そうしないと生活がダメになる。
そうしないと不安。
そうやって本当の自分らしさを出さずに、本心を抑え込んで気づくこともないまま、やり過ごしてきたという人がほとんどなのでしょう。
中にはこのようなブログを読んだり、人生の危機に直面して、本当に生きたいように生きたいと人生を見つめざると得なくなってしまった人も、最近は増えてきたように感じます。
私のように宗教的体験・一瞥体験をする人も増えてきたようで、気づきの深さは異なるものの、危機的状況で生命の真実やこの世の真実に触れる方、緩やかな気づきを連続で体験し、いつのまにか自分でも気が付かないうちに、真理がわかってしまったという方が増えてきています。
多くの場合は「探求」がしばらく続くことになります。
私のように一度深い体験をしたからといって、真理がわかってもやはりまたエゴ・自我がそれまで培ってきた思い込みの力は凄まじいのです。
「ああ、そうか。過去も未来もないんだ。幻想なんだ。今しか存在しないんだ。今目の前のことに、正直に心を開いて対応していくだけで、人生うまくいくんだ」
生死をさまよった際、このような気づきが訪れ、深い安堵を感じました。
でもまた元に戻るのです。
抱えていたビリーフ、執着の大半は浄化されたとはいえ、根強いものがまだあるのですね。
過去の傷がまたぶり返して、そのことで「今」にいれないこともありましたし、不安を消したい、経済的な安心を得たいという今ではない未来の不安を消したくて仕事を選んだこともあります。
そうするとやはりしんどくなります。
何かを決断する時の動機は大事です。
「今」にいれるとそれだけで満たされ幸せを感じます。
これは単純な言い方をすると「好きなことをする」という言葉で表すことができます。
私の場合は、グリーフケア・スピリチュアルケアで話を聴かせていただいている時やグループワーク、ブログを書いている時、研修を受けている時などが最も「今にいれる時」です。
日常生活での人間関係も、まあまあ上記に近づいているかなと思います。
それでも、やはりずっと今にいられるわけではなく、起きてもいないことに対する不安はやってきます。
気づきが深まると、自我に願望を実現させる力はないとわかってくる
自分のエゴを満たすために抱く願望というのがありますね。
若い頃だったら、人よりも優秀でいたいとか、人よりも美しくありたいとか、人よりも豊かでありたい、といった願望を抱くこともありました。
今このように人と比べて優劣をつけたがる願望はほとんど抱かなくなりました。
今抱いているのは生き方についての願望ですね。
自分のやりたいことで収入を得て生きていきたいということ。
他は家のローンや教育費がかかるので、その不安をどうにかしたいという願望があります。
好きなことをして生きていきたい、天職で食べていきたいという願望を抱く人は今とても多いように思います。
そしてぶつかるのがお金に対する不安。
本当にやっていけるのか、と。こちらの記事にも書きましたが、
アニータ・ムアジャーニさん「お金について話そう!」Let’s talk about money
臨死体験で深い洞察を得たアニータさんでさえ、ぶつかった壁だそうです。
「お金のことを考えている限り、お金は入って来にくい。」とのこと。
お金に対して不安な気持ちを抱いていると、その不安が現象化してしまいますね。
だからといって、お金に対する不安が自然と消えてくれるわけでもなく、上記のアニータさんの動画を見たり、天職で食べている人のブログや本を読んだりして、ゆっくりと「大丈夫」という感覚を潜在意識に植え付けていくくらいしか対策はありません。
そして、自我には願望実現の力はないということをもっと肚落ちさせる。
自我がこだわればこだわるほど、執着となるので、その執着の状態が「叶ってしまう」ということです。
理想の状態を決めて、「こうなる」と決意することはいずれ叶うのですが、それが執着になるとなかなか願望が叶いません。
願望を抱いて、その一点に執着しすぎるあまり、それだけがどうしても叶わないということに。
そういう時は他のことに目を向けるようにしてみると、それ以外のことでうまくいっている面が多数見つかるはずです。
それもまた「願望実現」ととらえるとどうでしょうか。
狙ったものではなく、あまり意識していないものが叶っていないでしょうか。
自我で頑張って頑張って得たというより、いつのまにか得ていたもの。
そういったものは自我の力ではなく、他力によってもたらされたものが多くを占めるのではないでしょうか。
他力というのは、神や仏といった大いなるものの力、自分の潜在意識が知らない間にそこにつながってもたらされたものとも言えます。
他者との縁によって受け取った豊かさなども含まれます。
願望実現をするためには「宇宙に委ねる」とか「手放す」とか「サレンダー(降参)する」とか「大いなるものに明け渡す」とか言われますが、これは自我には力がないと肚から認めることですね。
これがまた難しいのですが・・・。
「まだやれることはあるんじゃないか」とどうしても思ってしまうのが自我なわけで、そうやって自分で頑張ってどうにかしよう現状を好ましいものに変えようとするから、かえって前に進まないのです。
同時に、これは私の場合ですが
「自我には願望実現の力はないんだ」
「自我の努力は欠乏動機だから行動するとまた欠乏を感じる現象を創ることになる」
「自我で頑張ることは幸せにはつながらない」
「でもこうやって何もしないこともまた自我で頑張っていることと変わりない」
「明け渡したつもりで『明け渡しもどき』になっている」
などと気づくようになってきました。
自我で頑張ることの終焉に近づいてきているのでしょう。
自我で頑張るのではなく、力を抜いて取り組めることであれば、それが自分にとって当初思っていたような天職どうかはどうでもよくなるのではないかと思います。
自分に向かないことをやっているのは自我の力で頑張っているということですが、自我の力が弱まっていれば好き嫌いは関係なく目の前のことに没頭できます。これができない、人に良く思われようとしたり不安を消すためにやっているのはやはりそれは自我なのですね。
そして
「外の世界は心の反映なんだから、まずは自分を満たすことが大事」
「今できることで満たされることはないか」
「集中しづらくても目の前のことにできるだけ没頭しよう」
「今いるところで、結果にとらわれず最善を尽くしてみよう」
「今満たされているものに気づこう」
「どんな状況でも、目の前の人に喜んでもらえるような仕事をしよう(私の場合は家事など)」
「平安な心理状態と不安や焦燥感にとらわれる心理状態は交互にやってくるもの。辛い時は過ぎ去るもの」
「そもそも自分が世界を創っているんだから、外の現象がどうであれ私自身の内面の反映なんだ。怖く見えてもそれもまた自分」
などと思うようになってきました。
自我で頑張って生きる段階から、真我で生きる段階、他力で生かされていることに感謝する段階の手前で、こういった不安や恐怖は出てくるものと言われています。
他力で生きる、大いなるものへの明け渡しは自我ができることではなく、意識しない願望は自然と叶っていますが、狙った願望については努力して追いつめられた際に自然とそうなるもののようです。
自我には力がないと肚落ちすると、周りのものは自分が一人で成し遂げたものではなく、いかに多くの人々に支えられ、他力のはからいによってもたらされたものなのだということがわかり、おかげさまという心がわかります。
私はまだ行ったり来たり、自我が相当強いようです・・・。
今日も読んでくださりありがとうございました。