「ほんとうの自分」を出すなと圧力かかるのが目に見えるものを重視する人間界。それでもたましいは「ほんとうの自分」を求め続ける
外的動機と内的動機
外的動機とは、他者からの評価や賞賛、罰則など自分以外の外側の環境によって生まれる動機です。
内的動機とは他者からの評価や、いくら稼げるなどといった理由からではなく、自分が夢中になれる、没頭できる自分の中から生まれる動機です。
外的動機ばかりの行動では真の幸せを感じることはできません。人は「ほんとうの自分」になったとき、幸せを感じます。
外的動機が人生において必要な時期もあるでしょうが、「ほんとうの自分」というのは内的動機を深めていった先にあるものです。
たとえばある活動やある仕事に対して
以前はそれほどしんどいと思わなかったのに、最近それがしんどく感じる。
以前大事にしていた価値観が今はもう自分に合わない。
これはもう「外的動機」で生きてきた自分が「内的動機」で生きていきたい自分に成長しているからなのかもしれません。
周りの価値観に合わせて生きていくことに何の疑問も持たなかった、その枠の中で自分の能力を発揮して、他者から受け入れられたり賞賛されることに価値を見出していた。
しかし今はそんなことへの興味は薄れ、本当の生き方で生きていきたいと思う。
自分の内面は「ほんとうの自分」「自己実現」の方向に向かっているにも関わらず、おかれている環境は「外的動機」で動くことを求められる。そんなものもう求めていないのに。
そういう社会に居続けることのしんどさ、窮屈さを感じる。
人によっては病的な状態に陥るのではないか。
ほんとうの自分になるために マザー・テレサに導かれて の「はじめに」から
片柳弘史氏のことばです。
本当の望みと出会うとき、わたしたちは「ほんとうの自分」と出会います。ですが、どうしたらそれを見つけられるのでしょう。
まずは、自分の心としっかり向かい合うことだと思います。
自分の心と向かい合い、「したい」ことを見つけるのです。頭で考えるだけでは、「すべき」ことは見つかっても、「したい」ことは見つかりません。
大切なのは、心の底から湧き上がる「したい」という思いを感じ取ることです。
「したい」ことさえ見つかれば、あとはその思いがわたしたちを導いてくれるでしょう。
外的動機で動いていた 「私の英語一直線時代」を見つめてみた
以下は2012年に書いた記事。
自分では「これが好き」と思っていること。私の場合は英語でしたが、それは「外的動機」からなのか「内的動機」からなのか。
外的動機というのは、周りの環境に影響されて生まれるモチベーション、内的動機というのは外の声はどうであれ純粋に自分の心が「これ好き、やりたい」というモチベーション。
友人や知人の活躍を目にして、そのポジティブなエネルギーに感化され、自分もがんばろうとやる気になる時ってありませんか?
学生なら、スポーツや勉強をがんばっている友人を見て、「よし、僕も次のテストで90点以上目指すぞ!」とか。社会人なら久々に会った学生時代の友人が出世したり成功しているのを知って、「私も資格を取って収入アップを目指そう!」とか。
私自身、友人たちの活躍に感化され、モチベーションがアップすることは大いにあった。
私は小さい頃から英語を学んできて、その英語を仕事に生かしたいという気持ちがとても強く、友人の成功話を聞く度に「私も今日から勉強してTOEICで○○点目指すぞ!」とやる気になり、勉強を繰り返してきた。
一見、何の問題もなさそうだが、私にとって「英語」が何を意味するのかによってそれはワナになり得るのだ。
■純粋に英語が好きor外国人とのコミュニケーションが目的・・・・内的動機
■英語を自分の価値を高める手段にしている・・・・外的動機
私の場合は後者の外的動機のためというのが強かった。
もちろん、英語をやっていて本当に楽しいのは、外国の方と通じ合えたときなのだが、日常生活で外国人と話せる機会はそう多くない。
学生時代の私にとって、英語は「勉強」という側面の方が強かったのである。
そしてそれは結婚後も「収入を得る手段」と少し形を変えたが、勉強をする、英語の職に携わるというのは外的動機がより強かったためである。
何が問題なのかというと、英語そのものに惚れ込んでいるわけではないのに、自分では「英語が好き」と思ってしまっていたこと。
だから英語に執着して、友人、知人のがんばりを知ると、「私も!」ととりあえずそれまで生きがいのようにがんばってきた英語をさらにまたがんばることになる。
入院中のあの「啓示」は確かに将来英語を使って心を病む人の前で講演をしている自分を見たので、プロセスはどうであろうと私にとって英語は必要なのだろう。
退院後、人生観が変わったにも関わらず、「英語の仕事をしたい」という欲、「英語が好き」という思い込みは持っていたので引き続き英語講師の職に就くことになったのだ。
しかし、自分の「考え」ではなく、「感情」を見つめると、英語そのものはそんなに好きでもないということがわかった。20年以上も英語と付き合ってきて、私が好きだったのは英語ではなく、「英語が使える自分」という理想のイメージだったことに気がついた。
普通、好きなことなら普段何気なくやっているし、それに携わっている時間は楽しいはずだ。
英語を勉強している間はどうだっただろう?
口に出して練習しているときは確かに楽しいし、やりがいを感じてアドレナリンも出ていたと思う。
しかし、何百、何千と単語を覚えたり、リスニングのトレーニングをしたり、興味もない内容の長文を読んで答えたりと、苦痛に感じる時間も相当にあった。
英語を身につけるには「非日常的なハードな訓練」が必要だといつも思っていて、それは英語を学習する生徒にも必要だと教えてきた。生半可にやっているだけでは使える英語などマスターできない、日本にいて普段英語を使う機会がほとんど無いんだから、と。
英語が好きというより、苦痛だったという印象が強い。
そして自分をより、立派な人間に見せるために英語をいわば「利用」してきたのだ。
そのことにかなり執着してきたと自分で思う。
相当性格が悪い。英語が使えるのは財産には違いないけど。
そして大事なことに気がついた。
幸せだったのか?ということ。
好きなことをしていたらその時間は普通は幸せを感じる。
「いやだな~、早く終わらせたいな~。」
勉強しながらいつもそう思っていたではないか。
他人ががんばっていると「自分も!」とやる気になるのは良いが、それが自分の幸せに繋がっているか、自分の心にはどういう動機が潜んでいるのかを冷静に見極めることの大切さに気がついた。
どうりで今まで努力しても喜びは一過性のものでいまいち充実感が無かったわけだ。
自分が本当に好きなことをやらなければならない。
好きなこととは、頭で考えて、お金が稼げるからとか、人の受けが良いからとか、自分はそれが得意だからということではない。
頭で考える前に、感情が、感性がどう感じるのかが大事なのだ。
好きなこととは、自然にやってしまうことだったり、時間があれば意識しなくともそれに携わっていたり、楽しいと感じられるもの、充実感を感じられるものだと思う。
さらに、その好きなことを他人のために役に立てることが出来たらすばらしい。
生きていくう上でもちろん、嫌いなことをやる場面というのは多くあるし、食べていくには仕方がないこともある。そんな日常の中でも、自分が心から好きなことに費やす時間を週に一度でも、月に一度でもいいので持ち、徐々にその時間を増やしていくのが良いと思う。
成功している友人、がんばっている友人からやる気をもらったら、今度からはそのやる気を自分の好きなことをするために注ごうと思えるようになった。
私は人間の心のことや、生き方、生と死に関することを考えることが好きなのだ。
というわけで親に「○○ちゃん英語の資格取ったんやって。あんたも負けんように英語がんばらな。」と言われてももうワナにはかからない。
私の気づき。外的動機であっても、大きな視野でみればそれは必然
その時に抱いた欲求や願望、自分よがりの欲まみれなものであっても、「未来の視点」から見るとそれさえもまた必然で起こっていたことなのではないかと思います。
心に苦悩を抱えた人達の前で英語で講演をしているビジョンを視たとき、それまでの人生の出来事の一つひとつが一瞬にして意味のあるものとして感じられました。
学生時代、英語を学習する理由は強烈な外的動機が元になっていましたが、その動機のもっと奥、たましいの次元から見ると、自分の使命を生きるためというまさにたましいの衝動というものではなかったのかと思います。
三次元の世界で人間として生きている限り、意識の重心は人間次元。
あれが足らないこれが足らない。あれも欲しいこれも欲しい。すごい人だと思われたい。人に嫌われたくない。
そういった「欲」を抱えることになります。その欲は多くの場合エゴを満たすためのものであり、一時的に満足を感じるに過ぎない「にせものの幸せ」を叶える欲。
そこにとどまっていたら「ほんとうの自分」にはたどり着けませんが、冒頭に紹介させていただいた「ほんとうの自分になるために マザー・テレサに導かれて」の片柳氏の言葉にもあるように「自分の心としっかり向き合う」ことが大切なようです。
普通に社会人生活を送っていたら、外の価値観に影響されがちなので、そこを「いやちょっとおかしいんじゃないか」と自らどう生きるべきかを能動的に問う姿勢が必要となるでしょう。
私は死に直面した時に身体面、精神面、スピリチュアルな面と全体を揺さぶられるということが起こりました。
また不思議ですが、生死をさまよう直前まで夜寝る前になぜか自分の半生を振り返りいろいろと思いを巡らすという作業を行っていました。
そして入院中に一瞥体験と呼ばれる宗教的体験をし、自ら求めたわけではありませんが、雷に打たれたように使命のビジョンが視えたのです。
スピリチュアルケアを学んでいると、人は危機的状況にある時、スピリチュアルペインという苦悩を抱え、それまで拠り所にしたいた価値観ではもうやっていけなくなるということがよく言われます。
その苦悩の極で新たに自分の支えになるような価値観を見つけていくのですが、それは心の深いところ、たましいレベルからの気づきがもたらされる瞬間なのでしょう。
それまでの価値観よりももっと大きな視野から、俯瞰してみた気づきが得られ、生きる意味や生きる力になっていくもの。
その作業をケア提供者との対話を通してやっていくのが「スピリチュアルケア」です。
私の場合、英語学習という外的動機で動いていたことも、もっと大きな視点から見れば使命を生きていく中に組み込まれた必然だったのだと認識しています。
最後に。言いたいことはやっぱり単純。
やりたくないことを少しずつやめていって、やりたいことをやっていきましょう。
「今、満たされる」この瞬間を増やすのです。
読んでくださりありがとうございました。