セクシャリティ。セラピーやスピリチュアルケアとの共通点
昨年、セクハラや性被害について調べている時に、セクシャリティやセックスについての本をいくつか読みました。
スピリチュアリティの探究をしているとどうしても、セクシャリティやセックスのことは避けて通れなくなります。
自分らしさとか、本来の自己に向かう過程でセクシャリティの問題がとても大きな影響を与えているからです。
このテーマについてずっと書きたかったのですが、デリケートなテーマなだけに書きづらいという他、存在を支えるものでもあるので、深く深く探っていかないと書きたいことの本質に辿り着けないのですね。
性に関する問題は直接その人の存在の根底を支えるものといえますし、全人的苦痛を抱える場合も多く、それはスピリチュアルペインと非常に共通点が多いです。
スピリチュアルケアとセックス、
共通点はいくつもあったのですが、今回は双方向のケアが成されることについて。
両者ともセラピー効果がある
スピリチュアルケアでは、ケアする側とケアされる側というふうに、表現します。
これは立場上そう言ってるだけというか。
例えば「看護師」と「患者」。
看護師がケアする側、患者がケアされる側。
「カウンセラー」と「クライアント」
カウンセラーがケアする側、クライアントがケアされる側。
患者さんやクライアントさんが、なんらかの苦悩を抱えていて看護師やカウンセラーに相談します。
スピリチュアルケアを受けたい、相談したい、話を聴いてほしい、と思っている側がケアされる側になります。
しかし、本当に良いケアになった、という場合それはケアする側、される側という垣根が無くなり、双方向がケアしケアされるという現象が起きる。
患者さんが看護師さんからケアされるだけではなく、患者さんも看護師さんをケアしている。
カウンセラーがケアをすると同時にクライアントさんからケアされる。
なぜそういうことが起きるかというと、職業や役割という枠を越えた人間同士のコミュニケーションだから。
社会的や役割を取っ払って、心の深い部分での交流がスピリチュアルケアでは成されるから。
以下はスピリチュアルケア師や臨床宗教師の研修などでよく使われる図です。

※図はお借りしました。
双方の服装や周囲の状況が「どんなケアか」を表しています。
スピリチュアルケアは双方とも裸。
すなわち、心が裸の状態。
双方とも、素の自分。
患者さんやクライアントさんが心を開いて打ち明けてくれる、そのような態度によってケアする側もケアされる。
でもこれは、ケアする側が「この人になら打ち明けてみようかな」と思ってもらえるかによるのですね。
ケアする側がまず、心を開いてまっさらな気持ちで接することができているかどうか。
そして相手が安心して「この人に話したいな」と思えることが大事。
双方が心を開いて、役割や肩書きにとらわれず、素の自分で対話をする。
だからこそ一方通行ではないケアが成り立つのですね。
またスピリチュアルな次元からの不思議な力が働いていることもケアになります。
本当に良いケアになった場合は、疲れないという声もよく聞きます。
むしろ元気になり、癒されると。
もちろん、肉体的には疲労を感じることはあるでしょうが、気力やエネルギーが充填され、精神的にも満たされます。
・・・・これって、良いセックスにも同じことが言えるんですよね。
何冊かセックスに関する本を読んでいて書いてあった衝撃的な表現がありました。
それは多くの人が陥っていて、「こんなもんだ」とやり過ごしているのですが、それはセックスをしているつもりで
「相手の体を使ったオナニー」
だと。
つまり、目の前の相手と肌を重ねていても、本当の意味で相手に向き合っていない。
体が裸でも心が裸ではない状態、服を着ていて偽りの自分のままの状態です。
自分の快楽にしか集中していない。
あるいはその時間が苦痛で早く過ぎ去ってほしいと、自分の不快感に集中している。
だから終わった後に、がっかりしたり、不満が残ったり。
肉体的には満足できたとしても、心で幸せを感じることもない。
心が満足していないので、もっともっとと快楽ばかりを求めるが、本当に欲しいのはそれではないのに、なかなか気づかないのですね。
でも、本当の意味で相手を慈しみ、相手とつながるセックスは心から満たされ、幸せを感じ、生きる力になります。
そこに至るには、本当の意味で「裸」になる必要がありますね。
さらにもっと深い感覚では、スピリチュアルな「ワンネス」を体験したり、自分の存在の意味がわかったりという一種の宗教的な体験をする場合もあるそうです。
そしてお互いの能力や才能開花が進むこともあるそうで、これはおそらく愛の交換によってより深く自分を愛することができるようになった結果なのだと思います。
「忘我」の状態になると宇宙の愛を感じたり、瞑想状態になったり。
スピリチュアルケアにおいても「我」から自由になり、相手と共にいることが求められます。
「困っている相談者に解決策を教えてあげたい」
「自分の力で救ってあげたい」
という思いに負けて、相手がまだ話し終わってないのに言いたいことを言ってしまうのはそれこそケア提供者のエゴ、一人よがりです。
相手と対話しているのではなく、相手を使って自分の欲を満たそうとしていないか?
まさに先ほどの
セックスをしているつもりで
「相手の体を使ったオナニー」
と同じこと。
そういったエゴを脇に置き、ただただ相手の言葉に耳を傾け、理解しようとする態度が、癒しや気づきをもたらします。
そして時には両者共、一種の宗教的体験というか、
対話を通して、神や仏といった超越者の存在や、心の奥にある本来の自己を感じることがあります。
スピリチュアルケアと愛のこもったセックス。
どちらにも言えるのは、癒しやワンネス体験は自分というエゴにとらわれていたら絶対に起きないということ。
自分の力で相手を癒そうと、自我で頑張るのではなく、心を開いて自然とわき上がってきた感情を伝えあうことで、結果的に癒し、ワンネスが感じられるということです。
このテーマは奥が深く面白いのでまた書こうと思います。
お読みくださりありがとうございました。