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眠り込んだスピリチュアリティを呼び覚ます。「はじまりの死生学」

2012年執筆の記事を少し訂正してます。

2012年執筆。「スピリチュアル・ケアの生き方」を読んで

では出生前から死後までをスピリチュアルケアは網羅しているという話でした。読みやすい本でしたが、今回の「はじまりの死生学―「ある」ことと「気づく」こと」は一つひとつのテーマをより深く掘り下げて書かれてあります。

難しめですが、より深く探究したい人にはおすすめです。

数年前は毎日寝る前にこの本を読み、自分自身の心の深いところをつながるためか平安を感じていました。

哲学的、宗教的内容であったり芸術のこと、出生前診断や延命などにも触れられています。

平山正実著『はじまりの死生学 「ある」ことと「気づく」こと』を読んで

 

一人ひとりがスピリチュアリティを有している

本書では人間一人ひとりがスピリチュアリティを有しているということを述べている。このスピリチュアリティをいのちよりも大切な「存在感」と説明している。ここでいう「いのち」とは肉体としての生命というニュアンスである。

現代の社会ではこの「存在感」を自分で実感できなくなるとスピリチュアルペインとして現れる。一般的なケースとして知られているのが、重い病気や障害を負い、「病気が存在を脅かす」というものだ。

しかし、健康な若者であってもスピリチュアルペインを抱く場合がある。その一つとして現れるものにリストカットがある。自分の手首を切り、痛みを感じ、血が流れるのを見て「生きている」という自分の存在感を感じ、安心すると述べている。

スピリチュアリティ、つまり存在感を実感する必要があるのは病気になったときだけでなく、日常生活においても大事だ。自分が自分らしく生きていくには、自己肯定感、あるいは自尊心ともいうが、そういう自分の存在感を実感し、それを喜びの伴う形で発揮することが幸せに繋がるのではないだろうか。

「弱者を通して見えるもの」として上に例を挙げた社会的弱者とされる老人、障害者、病者のスピリチュアリティ、存在感に関して興味深い見方がなされている。「心身とも病気によって犯され傷つけられていたとしても人格的部分は無傷であるという信念、これが援助者にとって必要である。」(平山 2005:209 )

目に見える表面的な部分のみを見ると弱いとみなされるかもしれないし、実際にスピリチュアルペインを抱き、もがいている人もいるだろう。しかし、その人の奥にあるスピリチュアリティや人格というものに焦点を当てると、必ずしも「弱者」ではない

表面的な部分がどんな状態であれ、スピリチュアリティや人格といったその人の軸になる部分はしっかりと存在している。死や病などの限界状況に直面することにより、その後の転換と変容と再生に繋がる。

スピリチュアルペインを抱き、苦しみつつ覚醒することで真の自己に気づくと述べている。このような考え方は、今までは社会的弱者としてお世話されるのみ、介護されるのみの存在という印象しか抱かれなかった人たちが、周りに気づきや癒しを与える存在として尊重されるのではないだろうか。

「われわれは脳中心の社会の中に生きている。そこから引き出されてくるのは、効率とそれを裏付ける序列化社会である。

脳の働きの中でも、もっとも重要である意識がなくなったとみなされる、脳死や植物状態に陥った人、認知症に罹患した人、重度の精神的、身体的、知的障害者は、生産社会の中で、隅に追いやられている。」(平山 2005:176)と述べていることから、まだまだ日本の社会は健康で社会的地位が高い人のみが主役で価値があるかのような印象である。

様々なシステムもそのような人のために作られていると感じる。

社会的弱者とされる人にとって生き辛い社会だと感じるが、上記のような「人格的には無傷であるという信念」持つことで、健康な人もそうでない人も同じように尊い存在で、存在すること自体に価値があると見ることが出来るのではないだろうか。どんな立場の人も生きやすい社会に繋がっていく希望が持てる。

グリーフケアに関して

グリーフケアに関しては、誰のためのグリーフケアなのかを考えることの大切さを説いている。グリーフケアは主に遺族の為のものである。その遺族のグリーフがケアされるには亡くなった故人の人生や生き方、存在が尊重されるということが大前提である。

病気や寿命でなくなった場合と、事故や殺人、戦争などで亡くなった場合では悲嘆そのものの質が異なる。大事な人を亡くしたということは変わらないが、後者の場合ではそれに加えて加害者となる相手への恨みや理不尽さをより感じる。

本書では靖国神社の例を挙げて、誰のためのグリーフケアなのかについて考えることの重要さ、そしてケアの難しさも説いている。

「このことから何がわかるのかというと、国家という権威が死後における地位も自由も支配し、決定するという構造になっていることがみえてくる。そこに死者の自由も遺族の自由もない。

このような神社側の主張は、遺族によってはその心情を逆撫ですることになるだろう。なぜなら当事者である死んだ霊も遺された家族も、その思想、信条、信念、信仰、民族差、及び、被害者であるのか、加害者であるのかといったように、みな立場が違うのに一挙に権力によって統制され、合祀されてしまうからである。」(平山 2005:204)

大事な人を亡くした原因が人災であった場合のケアの難しさを述べているが、加害者の立場に対するグリーフケア、被害者の立場に対するグリーフケアの具体的な体験談もあればぜひ知りたい。

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