2013年に書いた「死生学」のレポートです。
仏教の「三法印」って何?書いといて忘れてる!
カトリックの考えでは脳死は人の死とされているとか、知識としての情報はすっかり忘れてしまってます。
しかし、死生観や生きる意味について抱く本質的な考え自体は今も変わりません。
死生学についての自分自身の解釈
死生学の授業を通して自分はどんな死生観を抱いているのかということを見つめた。
しかし自分の死生観を言語化するとなるとまだおぼろげで、さらに学びを深める必要性を感じている。
現時点での考察「この世界について」と「生きる意味」について述べる。
授業では各々の宗教におけるいのちの意味や死後どうなるかについて学んだ。
私が抱いているいのちや人生のイメージと、仏教の『三法印』における「諸法無我」「諸行無常」が重なると実感した。
普段は意識することはないのだが、死を意識する体験をした際、財布の中から一枚のレシートを見つけ仏教でいう「縁起」の意味が知的レベルではなく体の感覚としてわかった。
レシート一枚が存在するには、紙が必要、その紙も原料が必要、それを作り出す人、レジの機械、店、レジ打ちの人、インク、店を建てる人、設計する人、買い物をした私、とレシートが出来た背景をたどるときりがない。
たった一枚のレシートが単独で存在しているのではなく、ありとあらゆる人や物が関わって存在しているのだと気がつき、深い感動を覚えた。これと同じことが人間一人ひとり、出来事の一つひとつにまで当てはまり、意識せずとも皆が支えあっていてそこから漏れるものは何一つないとわかった。
しかも絶え間なく物事は変化し続けていて止まることがない。循環を繰り返している。
この世ではこの二つが完璧な動きとタイミングで働いているのだということが実感としてわかった。元々の仏教の知識は常識程度に知っているのみで、信仰心もなかったが、仏教で言う「諸法無我」「諸行無常」について講義で習い、自分の体験したことと重なるとの思いが強まり、自分の抱く死生観は仏教寄りなのだと判断している。
いのちとは何か、生きる意味とは何か自分なりに考えてみた。
生きる意味とは愛を表現することだと考えている。
最初はカトリックの脳死臓器移植に対する見解については違和感を抱いた。
カトリックでは脳死は人の死と認められるとのことだが、いずれ死ぬとはいえ、この考えには賛同できない。
私は脳死であっても、生きている側の人間が判断することのできない「魂」のようなものが存在するのだと考えている。
また臓器移植を行って別の人の命を救うことが英雄的な行為だと述べているが、それは「生」が善い事で「死」は悪いこととする価値観なのではないかと感じる。
本来は生も死もどちらも等しく尊いものであり、臓器の病気で死ぬことも自然の成り行きであって尊いことだと感じる。
脳死であってもそれまでの人生を生き抜いたこと自体が尊いと感じる。
臓器を提供することがいのちのプレゼントとよく表現されているが提供することも尊い行為であり、提供せずに亡くなることも尊いと感じる。
結局その行為がどうであるかではなく、「行為を行う心」「行為を行わない心」という現象としては見ることのできない動機そのものが大事なのではないかと、最初抱いていた考えから変化してきた。
価値観は人それぞれ異なるが、利己的行為なのか利他的行為なのかということはその行為をする本人の心のみが知っている。
脳死臓器移植賛成、脳死臓器移植反対どちらの場合が愛の行為かという問題は決めることが出来ない。
それは賛成である理由が「愛の行為」であると信じている人もいれば反対である理由が「愛の行為」だと信じている人もいるからだ。
脳死の問題から、表面的な現象に囚われるのではなく、本質は心にあるのだということを強く認識した。
以上、まだまだ言語化しきれていない部分もあるが現時点で抱いている死生観である。