唯識思想と人体・意識・次元の図。トラウマの再演。人生創造の引き寄せの法則。

ちょっとまだ作成途中なのですが・・・。

バーバラ・ブレナンさんの本「光の手」を参考に。

人間の身体はいくつかの次元の身体で構成されている。

普段の意識のは「肉体の次元」に重心が置かれている。意識の重心が後ろに行くほど、自我から離れられる。

「もう一人の自分が動き回る自分の心を見ている感覚」に。瞑想などで達することができる。

肉体は食べ物から成り立っています。

エーテルボディは「気」「プラーナ」から。鍼灸など東洋医学で扱うのは主にここです。

気が不足するとうつっぽくなったり、

気がみなぎるとやる気がアップしたり。

「気」というだけあって、「呼吸」も重要なポイントです。

感情界ボディは文字通り、感情の動きを、

精神界ボディは知的活動を支えます。

これらは肉体の次元つまり3次元に属します。

最後に、バーバラ・ブレナンさんの図に加え、横山紘一先生の「唯識の思想」を参考に、仏教の唯識で言われている内容を重ね合わせてみました。

肉体次元に属する感情や知的な精神活動の大本になっているのが「末那識」「阿頼耶識」。

末那識は自我執着心とあります。

「ああじゃなきゃいや、こうじゃなきゃいや」という心のとらわれですね。

日常生活で何か出来事が起こった時、感情が動くことがあります。

泣いたり怒ったり、驚いたり。

その時、その場面で感情を受け止め、味わいます。

その場面が過ぎたらその悲しみや怒りはどこかに行ってしまい、とらわれないのであれば、その出来事によって起こった心の揺れに対してこだわりがない、執着がないということ。

しかし、場合によっては悲しみや怒りを感じた後もずっとそのことばかり考えて、苦しい思いをすることがあります。

それは、末那識に執着の種があり、それが癒されておらず、感情が引きずりこまれ持っていかれている状態。

 

執着を手放すと感情に振り回されることが少なくなり、日常が生きやすくなってきます。

この作業を他者に手伝ってもらうのが、現代で言う「カウンセリング」「セラピー」などのケアになります。

そして「阿頼耶識」。

これは個人意識と全体意識の境目に属する意識であり、個人が抱える「業の種」が蓄えられているところです。

種なので発芽し、成長します。

それが現実の世界で身に起こってくる出来事ですね。

「自分の心」ではありますが、どんな種を持っているのか、自分でそれを見ることは普通はできません。生まれた時点ですでに過去生からの業の種を抱えています。

成長していく段階でそれらが発芽します。つまり出来事を通して色んなことを体験していきます。

体験を通して、たましいが学びを得た、自分にも他人にも誠実で正直にふるまうことができた、など心が浄化するとその出来事からの学びはめでたく卒業。

しかし、傷ついた体験をした、他者を傷つけてしまった、自分の心をごまかしてしまった、などというわだかまりや傷、罪のような感情を抱えてしまうことがあります。

業の種が発芽し、出来事として現れたのですが、それを浄化できずに逆に巻き込まれ、とらわれてしまうという状態ですね。

そうするとそれはまた元の業がさらに引き続き、末那識あるいは阿頼耶識に保持されることになります。

「卒業」できなくてその課題は保留状態ということに。

再度、人生のどこかの場面でまた現れるのです。同じような出来事というより、「同じような感情の体験」として。

例を挙げると「トラウマの再演」がそうです。

よく言われるのは、幼少期に虐待を受けた人が、今度は大人になって自分の子を虐待してしまう。

あるいは恋人や配偶者に暴力を受けて再度、虐待の体験を繰り返すなど。

両方とも傷を癒そうとする無意識レベルの行動ということになります。

性的な虐待を受けた人の中にも、自分が加害者になる場合もありますし、大人になって風俗や売春という行為によってその傷を癒そうとする人もいます。

肉体の次元の感覚では「傷つく」とわかっていても、なぜかそうせずにはいられないというもっと奥の次元からの衝動でそうなるのだと思います。

傷ついた体験が癒され、浄化されることを求めている現象ですが、なぜか無意識に「傷つくことを選んでしまう行動」を起こしてしまうのですね。「今度は浄化されたい。

今度は癒されたい。」今度癒されるためには、同じような体験が現れないと癒される機会にも会えないので、そうなってしまう。

しかし、悲しいことに多くの場合は癒されずに、また心に傷を負う、そしてまた同じような場面を体験する、また傷を負うというループにはまってしまいます。

だからこそ、現実の世界で自分や他人を傷つけるという「再演」をするのではなく、カウンセラーなどの援助者の力を借りることが力になります。

セッションの場でその癒されなかった感情を丁寧に見つめ癒していくことが、自分の心に平安を取り戻し、現実の世界でも自他を大切にできるようになっていきます。

トラウマの再演の例について長くなってしまいましたが、末那識の「執着心」、これがきれいになってくると、ずいぶんと人生が生きやすくなってきます。

外の出来事や自分の置かれている環境はあまり変わらなくても、以前とらわれていたことに対して平気になってくるのです。

例えば、借金を抱えていて「早く借金返したい。どうにか一生懸命働いてなんとしてでも返さなくては」という焦りと不安を抱えていた人が、大病を患ったことがきっかけで、人生について、生きることについての洞察が深まり、大きな気づきを得たとします。

大病を患って宗教的な体験をする人は時々いますね。

そういった体験をすると、自動的に執着心が薄れていきます。セラピーなどを受けなくても、勝手に気づきや癒しが起こるのです。

結果、借金を抱えているという事実は変わらなくても、気持ちの上でらくになって全く気にならなくなるという風になります。

一例なので、みんながみんなそうではないでしょうが、「自分がどうにかしなければ」という焦り、不安といった執着が外れることによって、「借金を抱えている」という事実は変わりませんが(覚醒体験によって借金帳消しになったら嬉しいですが)、根本からのとらえ方が変わるので、「どうにかなるだろう」「絶対返さないといけないものでもない」「破産しても生きていける」という風に気持ちがらくになるということが起こります。

環境は変わらなくても、自分の心が変われば人生が変わるというのはそういうことですね。

さらにさらに、もっと深いところまで癒しが進むと、外の現実さえも自分の望んだように変えられるようになります。

(私自身は、まだいくつかとらわれの心があるので、この話をするのはおかしいかもしれませんが、生死をさまよった際の気づきと普段降ってくる知直観を元に書いております。)

それが「引き寄せの法則」ですね。これは万人ができていることです。人生は望むようにならない」という思い込みを心の奥底に持っているために、現実もそのようになっているという人がほとんど。

抱えているものが現象化しているので、みんなが自分の世界を創造しているということになります。

外の現実が変えられるようになったと実感レベルで感じるようになるのは、阿頼耶識や末那識が相当浄化された状態です。執着や思い込みから自由になるというのは「執着」の力が弱まってくるということですね。

執着しなくなってくるので、「ああじゃなきゃいや、こうじゃなきゃいや」という気持ちがない。

普段から「ご機嫌な状態」なわけです。

となると、そのご機嫌な状態がそのまま現実に現れるので、平安で幸せということになります。

これは病気や事故など、通常人が避けたいと思うような出来事が起こらなくなるということを意味しているのではありません。

また、怒りや悲しみの感情、爆笑するといった激しい感情を感じなくなるのでもありません。

むしろそれらの感情をより一層豊かに感じつつ、それにとらわれなくなるのです。

巻き込まれてしまうのではなく、道具として使うことができる状態です。

また個の次元を超えて、宇宙意識と一体になって他者のため世界のためにはたらけるようになります。

自分という個からのとらわれが外れて、個としての使命=全体意識・宇宙意識と一体になって生きる段階。パラドックスですね~。

 

まだまだ書き足らないのですが長くなりましたのでこの辺で。

 

読んでくださりありがとうございました。