問題解決をしたいという気持ちは、相手への関心から問題解決をする自分の考えに移ってしまう
岡田圭先生の本を読んでいます。
岡田先生はアメリカにて、終末期のケアに長年携わってこられた方です。
問題解決をしたいという気持ちは、相手への関心から問題解決をする自分の考えに移ってしまうことがあると述べられています。
p.44
解決手段が分かる時
誰かの話に問題を聞き取ると、その問題を解決してあげたいと思います。
同時にその時、注意が対話の「相手」から外れて、「問題解決をする自分の考え」に移ってしまうことがよくあります。
さらに解決手段が分かると、できることをし終える安堵感に惹かれて、求められたことのすべてを終えたように感じてしまうのです。
そうなると相手も、距離を感じて、関心を持たれていないなと、話す意欲が削がれるかもしれません。
特に終末期や大きな喪失体験などの話ではスピリチュアルペインと呼ばれる苦悩を抱えることが多いです。
スピリチュアルペインは解決策のない場合も多いです。
解決できる場合であっても、解決できない場合であっても、ただただ私の話に耳を傾けてほしい、気持ちを聴いてほしい、何も言わなくていいから私に関心を持ってほしい、一緒にいてほしい・・・・・。
そんな風に感じている人は多いようです。
何も言わなくていい、ただただ聴いてほしい。
話せないかもしれないけど、そばにいてほしい。
誰にでもできそうな印象かもしれません。
ただ何も言わず、ただぼーーーっと同じ空間にいるのとは違います。
そのような態度はむしろ相手が苦痛に感じてしまいますね。
心が相手に向いていないと「あ、関心を持たれていないんだな」と察知されてしまいます。
何も言わなくていい、ただただ聴いてほしい。
話せないかもしれないけど、そばにいてほしい。
一見ささやかな、でもとても大きな心の叫び、たましいの叫びではないでしょうか。
その人と一緒にいたい。
という心でいることが最も求められます。
最も大切なのは心なのですね。
解決手段のある悩みの方が対処が簡単に感じます。
必ずしも心を寄せなくてもいいからです。
「一昨日怪しい営業が来て、数十万円の健康器具の購入を契約させられた。解約したいんだけど」
という相談なら
「消費生活センターに行って相談してきてください」
と言えます。
心というより、頭の判断でできます。
でも終末期の苦悩は主に死の恐怖や、残される家族のことなど。
「夜になったら死んだらどうなるのだろうと怖くなる。何もかも存在しなくなるような感覚、自分がいなくなる感覚は恐怖でしかない。
死んだら人間の意識はどうなるんですか。」
このような問いに、どう答えればいいのか、正解がない。
人によっては宗教的な教えが大きな助けになるかもしれない。
誰かがそばにいてくれるという人の温もりかもしれない。
私の場合はどうだったのかと思い出してみます。
身体の状態が本当に苦しかった時は、自分が死ぬかもしれないという発想すらありませんでした。
しかし、回復後は
「本当は死ぬのかもしれない」
「みんな隠しているけど、本当は白血病なのかもしれない」
「昼間の母の態度、あの医療者のあの言葉・・・・何か隠しているのかも」
などという妄想が出てくるのです、特に夜。
ただ、私の場合は生死をさまよいましたが、回復のプロセスにあったという点が、回復の見込みはない状態とは異なります。
ですので身体は徐々に良くなっており、終末期に会話をするエネルギーの残っていない人や、薬の影響などで意識がもうろうとしている人とは異なる部分も多いです。
しかしある日、意識が普段とは異なる「変性意識状態」になり、その際宗教的体験をするのですが、後半は「妄想」に移行。
そして、本当に死ぬ場面にいるのだという妄想。
病室のドアを開けたらそこはあの世の入り口で、夫と娘たちが天国からお迎えに来ている・・・。
実際に娘たちの名前を呼んで、ドアを開けてもいないので「あれ?」と。
それを見ていた若い看護師さんの表情。
「精神科の先生呼びますね。」
白昼夢のような状態で、死の恐怖を感じていたらしく、暴れたらしいです。
うっすら記憶にあるのが
「私死ぬの?」
「・・・・無になる・・・・?」
などと言ったこと。
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その後、精神科の先生が来て「セレネース」という鎮静剤を点滴されました。
暴れたらしいので仕方ないのかもしれませんが、鎮静剤を打つこと自体が「問題解決的対応」ではないかと。
症状を抑えるという問題解決。
スピリチュアルケアの寄り添いとは真逆の対応のように思います。
この時のきつすぎる副作用からも色々と学びましたので、結果的には「貴重な体験になった」と思います。
死の恐怖と似ているのが、自我が消失するような体験。
これは2015年、病院での研修の際に。
自分を見つめる訓練をしていると、時に自我が薄くなる瞬間があります。
その際、自分が消えそう、死にそうな感覚が戻ってきました。
上記に書いたような恐怖と、この時は
「生きている人間がそばにいてほしい。何もしないでいいし、どんなことを言っていても気にしないから、とにかく誰か生きている人間がいることを感じていたい」
と強く思いました。あまりの恐怖で。
身体が弱っている時は反応する気力もない
それから、研修ではなぜか人の言葉が理解できない、理解するまでに時間がかかるという妙な現象も。
ある日の朝一番、スーバーバーザーの先生方と個人面談がありましたが、質問の意味が理解できず、音として受け取り、理解し、返答できるまで30秒とか1分かかりました。
こんな変な状態にもかかわらず、病床訪問は禁止されなかったのでそのまま行きました。
不思議ですが、患者さんを訪問する際はこのようなことは一切なく、パッと切り替わり自分を保っていられるのです。
訪れた際、担当の患者さんがまさに似たような意識の状態でした。
こちらが言葉を発しても、返事が返ってくるまで1分以上とか普通にかかるのですよ。
言葉を聞いて理解し、その返事を返すというプロセスは、元気な人であれば何の問題もなくスムーズにできますが、
身体が弱っていたり、薬の影響のある人にとって、想像もできないくらいエネルギーのいることなのかもしれません。
こちらに反応をするというだけでも、患者さんにとってはとても疲れることのように感じました。
弱っている人が、健康な人のエネルギーに無意識に合わせようとしてしまうことはあるように思います。
そしてそれは本人にとってしんどいのだろうけど、それを伝える気力もなく。
関わらせていただく際にはこちらの佇まいにも一層気を配り、静かで落ち着いた雰囲気でいることが大切なのではないかと思います。
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今日もお読みくださりありがとうございました。