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出会いと感情の自己開示③ 思った以上に深かったインナーチャイルドの傷

聴くことと相手と出会うこと

大したことじゃないように感じるけど、大きな傷になっていることってあります。

関連記事:「出会い」と感情の自己開示② 親から受けた影響

上記にも書きましたが、両親がお互いに「出会っていない」と言えない状態で、私を育てているわけです。

(それでも愛情を感じながら育ったのですが)

 

両親同士、深い部分で通じ合うようなコミュニケーションが少ない環境。

 

子ども時代、その状態を言語化できるわけもなく・・・・。

 

自分が頭で認識している以上に心に痛みを抱えていたと知ったのは30代後半の時です。

 

ケア提供者の研修で、他人のことなのにまるで自分のことのように辛くなったことがありました。2018年の3月に受けた研修です。

 

普段、相手の話を聴いている時に私自身も感情が揺れ、涙が出ることは多いのですが、それは自分が辛い、苦しいのではなく、ただ感情が相手に同調している状態です。

感情が大きく揺れたとしてもその後引きずることはありません。

 

しかし、この研修の時は相手に同調というより、自分の中のまだ癒されていない部分がうずく感覚でした。

 

ある研修生が入院患者さんを訪問した際の会話がグループワークの題材で、私自身のことは何一つ話していない状況です。

個人情報のことがあるので詳細は書けませんし、覚えていないのですが、2歳か3歳の小さなお子さんが入院中で、親御さんとそのお子さんと研修生のやり取り。

 

入院しているお子さんに行儀よくするように親御さんが注意しているという場面だったと思います。

 

私にとってこれはまさに自分ごとで、小さい時の記憶はないものの、「私は自分が辛い時ですら、周囲への気遣いを求められている。私自身を見て欲しいのに、誰にも甘えられない」

という気持ちがわいてきたのです。

 

実際に入院していたお子さんがどう感じていたのか、親御さんがどう感じていたのかはわかりませんが、私の心の奥にある痛み、苦しみが、今まさに動き出して出てきたそうな感覚。

 

その苦しみを出したいけれど、自分では難しく、静かな沈黙の時間が必要でした。

 

心の底にずっとその苦しみはあったはずですが、意識に上がってくることはなく、感情が揺れたことも無かったのですが、この研修ではじめて号泣。

 

帰宅後、家族の前では平静を装いましたが、夜一人泣きながら犬の散歩に行きました。

 

39歳にもなって泣きながら近所を歩くという・・・・。

 

そして1週間の研修の後半、K先生という牧師の先生が来られ、ヘンリー・ナウエンの「傷ついた癒し人」を題材に講義をしてくださいました。

 

その講義の間また私だけ号泣。

 

当時の気づきを書いたページが以下になります。

関連記事:2018年スピリチュアルケア研修を受けて。自分のコミュニケーションパターンへの気づき 

関連記事:喪失は恵みに。失ってきたからこそ、与えられる。自分の中にすべてある。

 

なんだかね、私ほんとはポンコツですよ・・・・。

仕事とか勉強とかはできるんですけど、素で接してくれる人の中にはポンコツに気づいている人がいるのではないかと思います。

 

子ども時代から、親が私の気持ちに寄り添ってくれることは少なく、何かを訴えても正論を言われたり我慢するように言われたり・・・・。

 

子どもなのに大人のように振る舞うことを求められる。

 

そこまで厳しかったかな?と自分でも思いますし、家では結構ふざけたりもしてたので、こんなにインナーチャイルドの傷がうずくとは予想しておりませんでした。

 

「話に耳を傾けてくれない」ことがこんなに深い傷になっていたとは、自分でも驚きです。

 

話を聴くという行為は、一見とても簡単で誰にでもできることのように思えます。

しかし、それは相手をありのまま受け止めるということでもあり、エゴに縛られている人にとってはとても難しいのです。

 

ありのまま受け止めるというのは、相手がちゃんとしているとか、間違ったことを言っているとか、そんなことはどうでもよくて、ただただ存在そのものを受け止めることかと。

聴けないというのは、相手の存在を受け止めていないのと同じであり、自分の観念の中だけ、自分の枠の中だけで完結してしまっている状態。

 

だから相手と「出会っていない」し「出会おうとしていない」。

 

でもこれはどちらか一方の問題というより、お互いが心を開けないからこうなってしまうのですよね。

 

子ども時代のことなので、どうすることもできませんが。

私一人が心を開いていれば、相手がどんな態度であれ、それもまた相手のありのままの姿なのだと受け入れられる気がします。

生死をさまよった際の感覚がまさにそれで、他者も自然も出来事も周りのすべてが調和し、完璧な秩序で完璧なタイミングのもと動いているのが感じられました。

 

聴いてほしいのに聴いてくれない、と私が思うのは私が心を開いていないからであり。

 

でも、子ども時代にそれを意識できるわけもなく、やはり時期が来ないと心は開けないのかなとも思います。

 

逆に私がケア提供者として接する際、相手が私に対して「聴いてもらった」と感じたとすると、それは相手が私に心を開いて接してくれたということではないか、と。

 

聴く側も話す側も双方が心を開くことで「出会う」のではないかと思いました。

 

今日もお読みくださりありがとうございました。

以下、追加です~。

 

 

幼少期、一番嬉しかった思い出は何だったかな?とふと思いました。

 

2歳8か月の時、花火大会に行くので浴衣を着せてもらった時が一番嬉しかったでしょうか。

 

その日は早い時間にお風呂に入り、普段着ることのない浴衣にテンション上がりまくりで、花火大会に行くのが楽しみで楽しみで。

 

可愛い可愛いと言われ、鏡の前でポーズを取ったのを覚えております。幼少期から内面は「ザ・女子」だったので女の子気分を味わえるのが一番の幸せなのです、昔も今も(その後は髪の毛を切られたので女の子気分を味わう幸せはお預けに)。

 

せっかく浴衣を着せてもらったのに、実際に行った花火大会ではあまりの轟音に耐え切れずに恐怖で号泣し、花火を見る余裕などみじんも無く、に親に抱っこされてずっと泣きっぱなしでした(笑)。

他、嬉しかったのは小1の時、7歳の誕生日にハーピットというゲーム機をもらったのと、障害のある叔母が私の欲しかったピンクの手袋をプレゼントしてくれたことです。

ハーピットもめちゃめちゃ嬉しかったのですが、ピンクの手袋は私好みの色合いで、お店に置いているのを見て「欲しい」と思い、伝えたところ叔母がくれました。

値段は100円とか数百円の安い物でしたが、叔母にもらったというのがなぜかとても嬉しかったのです。

 

お読みくださりありがとうございました。

 

 

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