2012年に書いた記事です。
当時は動物愛護についてもいろいろ書いていました。
2017年、レンタルサーバーの不具合でほとんど消えてしまったのですが、この記事はPCに残っていました。
当時持っていたダウンジャケットはもらいものものでしたが、
昨年母からまた3着目となるお下がりのダウンジャケットをもらいました。
記事に書いてある夫にもらったダウンは今の現役です。
2019年現在、革のバッグ、毛皮、レザージャケットなどは自分では買わない習慣が続いています。
もらったものは大事に使います。
※靴は革でないとしんどいこともあるので、靴は革を買うこともあります。
2012年当時は数か月の間でしたが肉も食べていませんでした。
数年前は1着数万円はしたダウンジャケットだが、近年は随分と安く購入できる印象がある。
そのダウンだが、私も2着持っている。自分で買ったものではなく、1着目は父から、2着目は夫からもらったものだ。
ダウンジャケットの中身、つまり鳥の羽毛だが、それがどのようにして採られているかなんて考えたこともなく、ただ「ウールのコートより暖かい」「冬は手放せない」とそれが作られた背景に思いを馳せることもなかった。
ペット産業の現状や、毛皮のことなどを調べるうちに、「ダウンはどうなんだろう?」と疑問に思いネットで検索してみると以下のサイトを発見。
ダウンジャケット1着にはおよそ70羽分の羽毛が使用されているとのこと。
どうやらダウンというのは、生きたまま鳥の羽をむしり、しばらく経ってまた羽毛が生え揃うとむしるという行為を5回ほど繰り返し、殺すらしいのだ。
鳥は生きたまま羽をむしられるので当然痛みに苦しむことになる。
詳しいことはダウンジャケットの真相を参照してほしい。
せめて苦しまないようになど作業の改善が必要だ。
事実を知ってしまったら今、そこまで鳥たちを苦しめて自分の着るものを買おうと思わなくなった。
しかし、すでに持っているものものもあるわけでそれを今後どうするか。
尊い犠牲があってのダウンジャケット、ダウンコート、あるいは羽毛布団。
今は捨てずに大事に使い切ろうと思う。
それがすでに頂いた命に対してせめてもの供養ではないだろうか。
いや、これを書きながら自分でもまだ違和感がある。
すでに持っているものを身に着けることでダウンの宣伝になってはいないだろうかと。
ダウンを着ている人がいる=まだまだダウンの需要がある⇒ダウンが生産される
このような懸念もあるのだが、私はそこまで強くはなれない。
ダウンを買ってくれた夫の気持ちは尊いものだし、出来ることを出来る範囲で行うことが大事だと思うから。
持っているものはしばらくは着ようと思う。
今後コート類を買うときはその影で苦しんでいる命がいるという事実に自分が向き合うことができ、それに耐えられる精神力を持ち合わせていればダウンにしろ毛皮にしろどうすればいいか自分で考えればいいと思う。
私はもう知ってしまったので買う気にはなれない。
供養すれば、感謝すればこれからも動物を苦しめてもいいのか、毛皮を剥いだり羽をむしってもいいのか。
いくら人間に感謝されたからといって、動物たちの苦しみをそのままにしておいていいとは思わない。
動物に対して残虐な行為はこれからなくしていくべきだ。
それは製品を買う消費者の選択が生産者側に大きな影響を与える。
新たに防寒着を買うときには残虐性の高い方法で採られた原材料のものは買わない選択をしようと思う。
今まではダウンに関しては全く罪悪感も何も感じたことは無かったのだが、自分の価値観が変わり、罪悪感を感じた時点でそれは罪になるのだ。
誰かに罰せられるというわけではなく、自分の良心が罰するのだ。
自分自身、ダウンジャケットが作られる背景など何も興味がなく、
当然罪悪感も感じていない頃、ダウンを買って着るという行為は罪にはならなかった。
真実を知ってしまうとそれに伴う責任もついて回る。
人間ではなくそれが動物であっても、苦しんでいるものがいる。
それも人間の生活のためにだ。
自分の持っているダウンが作られるまでに70羽もの鳥が痛みに苦しんでいるのだ。
無理やり自分の体の一部をむしりとられ、恐怖を感じても逃げることすら出来ない。
自分を守るはずの羽毛を人間が奪いとっていく。そして人間のための防寒着となり、経済活動を支える道具となる。
動物は人間の道具なのだろうか。
苦しみを知っているにも関わらず、自分のために利用するということはやはり罪になってしまう。
7年前自分が書いた記事を読み、「罪」とは一体なんなのかと思いました。
「罪」とは自分の良心が決める、良心が罰するなどと書いてあり、
自分が書いたにも関わらず忘れていた視点でもあり、考えさせられます。
正しい内容を書いているかどうかは疑問に思ところもあるですが・・・。
一旦あることについて知ってしまうと、次にそれに接した際に自分の心との折り合いが難しいです。
「〇〇するべき」と正義を主張するのは、むしろその人自身が癒されないものを持っているからのようにも感じます。
だから周囲に「ちゃんとしていない人」がいると無意識に攻撃している風な言動、行動になります。
そうすると周囲の人に正義を説いているようでありながら、実はかえって平安を乱している行為にもなってしまうわけです。
自分が癒されていないとそうなってしまいます。
まずは自分から癒されることが大事ですね。
そうすると、ことが正義を主張して人を攻撃するのではなく、
自然と人の優しい気持ちを引き出し、
今までいろんなことに無知だった人が、
「そうだよね。私たちの知らないところで苦しんでいる動物がいるのは悲しいことだよね。」と
関心を持ってくれて少しずつ社会も優しくなっていくと思います。
もともと優しい人はとても多いと思うので、
その優しさに蓋をしないで、陰で苦しんでいる人達や動物の存在に光が当たってほしいなと思います。