※2012年に書いたものです。
あなたは「生命」と聞いてどんなイメージを抱きますか?
「いのち」と聞いてどんなイメージを抱きますか?
■私が「生命」と「いのち」の視点について考えるきっかけとなったのが、2011年に参加した京都での誕生死セミナー</aだ。
(2012年の7月には私も体験者の一人としてお話をした。)
東大の教授である清水哲郎さんという方も同じことを述べている。
まず、漢字で表された「生命」。
主に、生物学的な肉体を指しているニュアンスが感じられる。
病院で治療の対象となるのはこの「生命」の部分である。
血液検査をはじめ、様々なデータで表すことができる。
一方、ひらがなの「いのち」はどうだろう。
それは「生命」の持つ印象と随分異なってくるのではないだろうか。
「いのち」は人生の物語。人との関わりで作ってきた物語としての「いのち」。
心の奥にあるニュアンス。生まれてから死ぬまでの物語。その人の人生。
■ここからは私がどう捉えたかを書く。私の考えは現在101歳の医師、日野原重明先生のものに近い。
「生命」は上記と同じく、「生物学的な身体、肉体」。
「いのち」は物語ととることも出来るのかもしれないが、「肉体の奥にあるもの、魂、スピリット」。
肉体は「いのち」の表現手段。
健康であることは「生命」にとっては大切だか、「いのち」にとってはそうとも言い切れない。
なぜなら、大病や障害に見舞われたからこそ、自分の「いのち」を輝かせて生きるという人が多いからだ。
そういう人は健康な身体を持っていないかもしれないが、周りの人に「いのち」を表現し、大切なことを伝え、元気を与えていたりするのだ。
だったら健康な「生命」を持った人はいのちを輝かせていないのか、スピリチュアリティの発露が乏しいのかというと、そうともいえない。
健康な「生命」に恵まれた人も自分のその「生命」を使って「いのち」を生かし、色々なことに貢献して、周りの人に喜びを与えている。
多くの人は「生命」「いのち」と聞いて清水哲郎さんや日野原重明さんとだいたい同じようなイメージを抱くのではないかと思う。
■最後に精神科医である平山正実さんの考えを紹介する。
平山さんは著書「 はじまりの死生学―「ある」ことと「気づく」こと」中で、画家の星野富弘さんの詩を紹介し、「いのち」という言葉を上記とは異なった解釈をしている。
(星野富弘さん
群馬県勢多郡東村(現・みどり市)に生まれる。1970年(昭和45年)に群馬大学を卒業し。中学校の体育教師になるが、クラブ活動の指導中、頸髄を損傷、手足の自由を失う。 Wikipedia参照)
有名な作品に「 深き淵より」がある。
星野さんの詩
「いのちが一番大切だと思っていたころ
生きるのが苦しかった
いのちより大切なものがあると知った日
生きているのが嬉しかった」
以下平山さんの文を抜粋する。
『人間は、いのちが一番大切だと思っている。いのちを守るためには、どんなにお金を使ってもよいというひとは多い。
また、義理や人情、恩などを踏みにじっても生き延びようとする人も多い。
このような人は、いのちより大切なもの、つまり精神性(スピリチュアリティ)の存在に気づいていないことが多い。』
『いったい、いのちより大切なものがあるのだろうか。あるとすれば、それは何か。それは、「人間が生きている」あるいは「生かされている」といった「存在感」ではないか。
それを生きがいといってもよい。いくら呼吸をし、心臓は動いても「生きている」という存在感がなければ、人間は真に生きているとはいえない。
いのちより大切なものは、人間存在そのものなのである。
存在はいのちに優位する。そして存在がいのちを左右する。』
■平山さん、星野さんは「いのち」という言葉をどちらかというと生物学的生命と捉え、私も含め清水さんや日野原さんの言う「いのち」とは同じ言葉であっても解釈が異なる。
平山さんのいう「存在感」という言葉が私が抱く「いのち」のイメージと重なる。
「いのち」という言葉を生物学的生命と捉えるか、存在感というスピリチュアリティとして捉えるかは人によって違うのだ。
しかし、表す言葉は違うけれども、言いたいことは同じである。