目の前のことこそ使命。
目の前の人に真剣にかかわっていくこと。
ただただ素直に正直に、ありのままの気持ちを伝えあえばそれでよかった。
今やっとそれができたのかな、できつつあるのかな。
このこと、実は知っていました。
2007年に「ああそうだったのか」と気づいたことがこのこと。
それまでにずいぶんと「ずれてしまって」本心を伝えられなかったりということがあったけど、死に直面してやっとこのシンプルな真実に気が付いたのに、またやってしまった。
「これが私の道」と真剣になっていたけど、目の前のことが「私の道」でもある。
目の前のことが「私の道」と違ったら、そこから去るのが正直に生きるということか。
そういう人もいる。
今自分の信仰も試されている気がする。
以下は私の尊敬してやまない本山博先生の著書
愛と超作―神様の真似をして生きる」から、今の自分へ。
p.88
生きがいはどこにでもある
生きがいを感じるようなことというのは、まず、自分に合ったものでないといけないですね。
それから人の役に立って、人を助けられるような何かができるということは、自分の大きな生きがいになりますね。
また、それをすることによって或る真理のようなものがわかるとか、あるいは、それをすることによって自分がどんどん成長できるようなものも生きがいになります。
それらのうち、どれが自分の生きがいになるか、生きる張り合いになるかは、人によって違いますが、自分がこれをやっていたら、すればするほど元気が出て、くよくよしなくてすむような何か、自分を充実させてくれるような、満足させてくれるような何かを、自分で見つけなきゃいけないですね。
そういうものは、どこにでもある。どういう場所に行っても、必ずあるのです。
最後の文が特に。
私にとっての社会的使命を一生懸命やってきて、ここに書いてある通り、自分の生きがいそのもののように感じている。しかしそこにコミットしすぎたようだ。
家庭人であることも使命だと、昨年の記事で書いたけど、家庭人からずれてしまっていました。
両方というのはバランスが大事。