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今日はクリスマス。あなたの優しさを、助けてと言えない弱い立場の動物のために。

スピリチュアリティが深まると動物愛護や自然環境への関心も深まる

誰かが苦しんでいるという状況を知ってしまったら、あなたはどう行動しますか?知るということで同時にあなたはどうあるべきかという責任も問われることになるのです。

2012年には動物愛護に関することも書いていました。以下になります。

辛い状況にあっても助けを求められない動物のことが気になるのは、自分の問題が解決されてないからなのか

(これは2012年の記事に加筆したもの)

2012年執筆記事。ダウンについて

2012年執筆記事。子犬を拾った

2012年執筆。肉を断って1か月

犬たちを送る日ーこの命、灰になるために生まれてきたんじゃない

ペットショップの裏側。ばっちゃんー助けられた繁殖犬たち

上記のページは過去に書いたものですので、今と若干考え方に違いがみられることもあります。

今の私の考えについては以下をお読みください。

 

動物愛護。毛皮を買わないことにしているというと必ず反論があったりする

毛皮を買うことに対して反対という内容ですが、これを言うと「だったら肉を食べるのはどうなの?」と反論したくなる人もいるでしょう。

動物愛護に関して一つ、何か行動を起こそうと思えば、ゼロか100かじゃないですけど反論が入りがちですね。

「だったらあんたウールのセーター着てるやん。」

「牛乳もあかんのちゃう?その調味料かて牛骨エキス入っとるやんか」

「釣りもしたらあかん。魚も動物や。」

「パールもあかんで。貝も生きてんねんから。」

という風に極端に走ってしまうことが起こりがち。たたかれるとということ。

どれも大事なことで、正しいことだとは認識していても、それらすべてをやめるというのはとても難しい。普通に生活していて、買い物するとき牛骨エキスやチキンエキスが入っているかどうか見る人はごく稀です。調味料のみならず、加工食品やお菓子にも入っています。

私自身、自分の限界も弱さもあり、肉は一時的に食べなかったもののやっぱり好きで食べてしまうような人間です。

動物愛護の問題は「正しさ」ではなく「優しさ」を大事にしたいと思っております。

 

まずは現状を知り、できる範囲のことから始めましょう。

このような団体があります。

ANIMAL RIGHTS CENTER

VEGAN FASHION

上記以外にもすばらしい団体が存在することでしょう。ぜひ探してみてください。

あなたにでもできることの例

・例えば毎日お肉を食べている人であれば週に1回は食べない日を作る。

・毛皮製品を買わない。

・動物愛護の活動団体に寄付をする。

・ブログやSNSで動物の置かれている現状について発信し、眠っている人々の優しい心を呼び起こす。

いきなりベジタリアンになったり、ヴィーガンになるのは自分に無理をさせてしまいます。できる範囲でできることからでいいと思います。

私も普段はお肉も食べますし、どうしても欲しかったので数年前にフェラガモの革のパンプスも買いました。カンガルーの革を使っているらしいです。買うときは悩みましたが、本当に欲しくて大事にする覚悟があったので。ヒールの部分を修理して何年も履いています。

このように自分にも限界があり、いくら動物愛護といってもできない限界もあるというのが正直なところなのです。

それでも、なにか一つでもできることという思いで、

「毛皮を買わない」「ペットショップでペットを買わない」「動物の置かれている現状をブログで配信する」という小さなことですが、それでも誰かに伝わると信じています。

人を裁く「正しさ」は時としてあなたを「魔」に変身させます。

あの人は毛皮のマフラーしてるからそれがいかに馬鹿げたことなのかちゃんと注意してやろう。

あの企業は動物を痛めつけているからそのこの製品は買わないとSNSで発言しよう。

そう思う方はたくさんいらっしゃるかと思います。

人間の犠牲になって、動物としてのいのちを生き生きと生きることもできずに死んでいった子たちへの優しさからだと思いますが、いつのまにかそれが誰かに対する攻撃に転じていることがあります。

その人の背景を察することも大切ですし、どうして動物愛護のことを訴えたいのか、実は自分は「正しいことをしている」と主張することで、他者を裁きたいだけなのではないかと自問することも大切ではないかと思います。

優しさは伝染しますが、攻撃心もまた伝染します。誰かに伝えたくなった時、それが愛からでしょうか。正しさを主張したい誰かを責めたいというエゴからでしょうか。

「誰かを責めたい」という場合、きっとあなたは自分自身の問題がおありなのでしょう。過去に理不尽な思いをして、それがまだ癒されていないのかもしれません。動物愛護という形で、目の前に現れているのかもしれませんね。

 

 

その動物が無残な死に方をしても、その後私たちの中に「生きているか」

私の考えですが、その動物が死後も「生きる」ような使われ方であれば毛皮でもほかのものに使われたとしても、それはそれでありだと思うようになりました。

死後も生きるような使われ方というのは、

・人間側が生きていくため、生存のために毛皮を着る。極寒の地に住む人。

・ファッションが生きがい。そのためには本物の毛皮でないと絶対に嫌!と思っている毛皮が大好きでそこは譲れない女性。

・これが私の生きる道だで生きがいだ!私は焼肉でお客さんを幸せにしたいんだ!という強い思いを持っている焼肉屋さん。

・人々に上質な鞄と靴を提供したいと日々技術を磨いている革職人。

つまり、犠牲になった動物が、人間のいのちを支え、肉体を維持して生きていくために必須であるか、たましいのよろこびつながるものであるかどうか。

そのようなものであれば、その後お肉になったり毛皮になったり、他の革製品になったりした後でも、死んだ後も大切にされているということことになります。別の形で生き、私たちの健康を守り、たましいに喜びを与えてくているとも言えます。

問題なのは「使い捨て」のように粗末に使われること

特にファッションに使われる革製品や毛皮。

毛皮についてですが、上記には生存のために絶対必要な場合と、たましいの喜びのために必要な場合は「あり」ではないかと書きました。しかしほとんどの人は当てはまらないかと思います。

毛皮を身に着けるのが生きがいというほどのレベルに好きなのであれば、その人に毛皮を買うのをやめましょうと訴える気はないのです。その人が毛皮が大好きで、大切にしているのであれば、別の形でその動物のいのちが生かされているということになりますので。

しかし、そこまでの思い入れがないにも関わらず、「あ~これかわいい!」という程度の気持ちで何も考えずに毛皮を買ってしまう人もいるでしょう。

高級品だけでなく、安価なバッグの装飾に使われていたり、なんでもないようなキーホルダーやアクセサリー、ペット用のおもちゃにまで、本物の毛皮が使われていたりします。なくてはならないものというより、ただの消費としての商品、あるいは浪費としての商品にです。

そしてそれを見て、「かわいい」と何も考えずに買ってしまう

現状を知らないのであれば本当に仕方のないことで、その人にとってその毛皮が本物なのかフェイクなのかということまで頭が回らないでしょう。

知らないことに何の罪もありません。

でも、それが生きている動物の体の一部だったのだと一旦知ってしまったら、自分の欲のため、ただ楽しむという一時的な娯楽のために買うという人は激減するはずです。

ましてや一生ケージの中に入れられ、自由に動き回ることもできず、親子同志、動物同士の温かい交流も知らずに過ごしているということ、生きたまま毛皮を刈られるということを知ったら、かわいそうで買いたいという思いも無くなります。

ほとんどの人はリアルファーかフェイクファーかなんてこだわらない。だったらフェイクでいい。

普段気が付かないだけで、人の心の中には優しさがいっぱい詰まっています。その優しさを、言葉を話せない動物のために、役立ててほしいと思います。

嬉しいことに、毛皮製品を売らないというアパレルメーカーも増えているようです。スピリチュアリティなどという言葉を知らなくても、人間の内側はちゃんとそのような機能を有していることの現れではないでしょうか。

自分以外の存在が、それが人間でなく動物であっても、痛い思いをしたり、恐怖を感じて逃げることもできない、地獄と呼べるような環境で一生を暮らしている。

赤ちゃんとして生まれて、安心してお母さんのおっぱいを吸うことができる期間なんてあったのだろうか。

親子や兄弟で無邪気に戯れることもなかったのだろうな。

痛いことをされても誰も助けてくれない環境で、最後には殺されてしまう。

 

人間の意識がもっと進化し、いまのような形ではなく、ちゃんと動物が生きている間、その動物がその動物らしく、自然のままで生き生きと暮らせる世の中になることを願ってやみません。

読んでくださりありがとうございました。

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