人間誰しも生まれたときから、いえ生まれる前から、
本来の自己に向かって成長していく存在です。
成長というか、いらない思い込みを捨てて本来の自己に戻るという意味ですね。
本来の自己というのは、全体意識や神意識、宇宙の意志、大いなるものと呼ばれている存在が望む在り方でもあります。
全体意識の流れに沿った生き方が、本人にとっても宇宙にとっても幸せということになります。
人間の場合は、赤ちゃんの時は全体意識に沿っているようですが、この段階では個としての自我は確立されていませんから、トランスパーソナル心理学では「前個」と呼ばれています。
まずはしっかりとした自我を確立するというのが人生の流れなのですね。
ですので、自分とは何に対して興味があり、どんな価値観を大切にしていて、どのようなことが嫌いで、という風に自分のことをわかっておくことが大事になってきます。
自我の確立ができていないと、自分が何をしたいのか、ということもわからないのですね。
全体意識が望むよう、全体意識の流れに沿った生き方というのは、自我の力がゆるんだ先にあるものですが、自我の確立が出来ていない場合、ただただ周りの言いなりになって、流されていくことになります。
全体意識の流れと、周りの言いなりというのは違っていて、たいてい周りの人や世間というのは不安ベース、自我ベースの考え方・価値観を持っています。
自我の確立ができていない人が、流れのままそれに従うというのは、自我ベースで生きている他人の価値観に巻き込まれて、それがその人にとって良いか悪いか幸せかどうかも判断できないまま、飲み込まれていくということになります。
人間には自然治癒力が備わっているので、そういった生き方をしているとどこかで病気になったり、人間関係がうまくいかなかったりして、修正が入ることになります。
そうやって、自我の確立が出来ていない場合は、感性を取り戻させるような出来事が色々と起こってくるのでしょう。
10代後半か20代前半くらいには自我の確立ができていることが一般的なのでしょうか。そのあたりは個人差もあるでしょう。
反抗期はまさに、自分とはこういう人間なんだという自我が確立されるために必要なプロセスなのですね。
その後、今度はその自我から自由になっていくプロセスが始まるのですね。
全体意識の流れに沿った生き方へとシフトしていくのです。
最大級の自我の解放は「死」だと思います。
物理的な肉体の死です。
自分の存在が消える(ように思える)体験ですから、最大限の恐怖を味わいますよね。
死は必ずやってきますし、逃げられません。自然と神さまにゆだねざるを得ない状況です。
しかしその恐怖もまた幻想。本当は最初から救われていたということがわかるのが、「死」だと言われていますし、この世の視点から「死」は不幸とされることが当たり前ですが、真実の視点からは死は解放であり、至福なようです。
「本当はずっと天国にいたんだ。」
しかし今、肉体の死の前に「自我の死」を通して同じような体験をする人が増えていますね。
いわゆる覚醒体験、宗教的体験を通してそれがわかったという人や、そのような劇的な体験ではなくても、徐々に訪れる内面からの気づきによって、いつのまにかわかってしまったという人など。
本当に不思議です。
私も一瞥体験があり、その後また自我が再燃。
最近ようやく「幸せかどうか、この先満たされた生活が送れるかどうかは、私の心の状態にかかっているんだな」
「外の世界に豊かさを創るには、まずは自分が満たされていることが必要なんだな」
ということが、深い部分でわかりました。
今までもわかっていたのですが、肚落ちしていなかったようです。
やっとわかってきたので、まずは自分の心が平安でいられること、軽くいられることを選びつつ、やっていこうという気持ちです。
知ってはいても行動できるかどうかはまた別で、完全にゆだねることというのは本当に難しいのですね。
やはり自我の「ちょっとほんとに大丈夫?」という声が行動のベースに張り付いていることがありますし、「これだけやってるんだから結果はこうなるよね」という期待も抱えてしまうのですね。
結果が気になって手放せないのは「自我」ですね。
結果を気にしたというプロセスを経ずにいつのまにか得ていたものなどは、最初から期待していなかったものが多いです。
結婚や出産など、全然執着していませんでしたが、とんとん拍子にことが進みました。
これは自我でどうのこうのしたというより、真我の部分、全体意識の流れがそうさせたのでしょう。
意識せずとも、そういった流れというのは常に誰にでも働きかけていて、本当はそっちの方が影響が強いのですね。でも普段の意識の重心が自我にあることが多いので、とてもそうは思えなかったりします。
こだわっていることほど、前に進んでいかなくなります。
無意識レベルで「当然」と思い込んでいることはそうなるので、私の場合は結婚は当然な流れだと深いところで受け入れていたのでしょうし、勉強や仕事は頑張らないと結果がついてこないと深いところで思っていて、自宅で英会話教室ををやっていた時はなかなか集客できない、給料も上がらないという思い込みもセットで持っていたのだと思います。
自我の力で頑張っていたので、常に結果を気にしていました。
結果を気にするというのは、相手のための結果というより、自分のための結果を気にしている場合が多いのではないでしょうか。
ですので自我が頑張っている状態では、不安や不満からなかなか抜け出せなくなり、結果不安や不満を感じる出来事につながってしまうのです。
昭和の時代であれば行動の力が外の現象に強く作用していたようですが、最近は意識の力が強くなってきているようで、以前のようにたくさん行動したとしても、根底にある意識が変わらないと現実は中々変わらない、努力が報われない時代になってきました。
努力が報われない=自我の力で頑張ることができなくなってきているということです。
今までは自我の力で頑張れば、ある程度の成果が残せたものが、頑張れば頑張るほど「やってもやっても満たされない」というスパイラルに繋がってしまう・・・そのような人が増えているように感じます。
これはまさに意識が進化してきているからであり、本当は自我には大した力はない、私たちのほとんどの部分を支えて、現実を創っているのは真我の部分だという気づきが、「頑張るほどうまくいかない」という現実となって現れているのではないでしょうか。
どうやったらうまくいくのでしょう?
頑張るのを手放すこと、とよく言われますが、頑張るのをやめたという形だけの手放しだと、内面ではまだ「頑張っている」ので手放したことになりません。
頑張るのをやめることすら、自分ではできないのですね。
行動をやめて何もしていないよ、と言ったところで心の中では「頑張るのをやめたからきっと良い結果になるだろう」と期待しているので、頑張っていることと同じなのです。
行動をやめても何も変わらないので、自我の力でとことん頑張って、もうやりつくしたという心境になるまでやる、ということですかね。
結果が気にならなくなるまで頑張ることしかできないような気がします。
読んでくださりありがとうございました。