「人生観が変わった覚醒体験を伝えたい」は自慢したいのではない
覚醒体験・一瞥体験は人生観が一変させるほどのパワーがあります。
「人生のしくみってこんなことだったの?」
このことを人に伝えたいと思いますが、そんな態度は「自慢」に思われたりもします。
確かに、覚醒体験者の中にはその後エゴの働きも強まり、人よりも優越感を感じるようになった人もいるようです。
自分は特別だ、と。
「私は覚醒していると思われたい」
これはエゴですよね。
覚醒していてすごい人と思われたい、つまり自慢したいという気持ちです。
「あなたってすごいですよね」と言われたいのです。
覚醒体験はあったとしてもまだ分離意識が強い状態。
「私とあなたは別の存在だ」と、まだまだ深い部分で思っている状態です。
しかし、体験自体を聴いてほしい、話したいという場合は自慢したいわけではありません。
ただただ、
「こんなすごいことを体験したのよ」
「人生のしくみ、この世とあの世ってこんな風になっているんだって!」
スピリチュアルな次元とこの世次元の不思議さを共有したいというか。
例えば、3Dアートがちゃんと立体に見えて感動した時、「わあ!すごい」となりますよね。
コツをつかめば誰にでも見ることができます。
見えたからと言って自慢することでもありません。
コツをつかんで見ることができた時の感動をあなたにも味わってほしい、感動を一緒に分かち合いたい、という気持ちになると思います。
それと一緒です。
覚醒という「アハ体験」を分かち合いたいのです。
自慢したいのでは?と思うのも聴き手の思い込み
覚醒体験に関わらず、
例えば「あの人難しい資格試験に通ったんだって。こないだ自慢してたよ」
という場合。
もしかしたらただ単に難しい資格試験に合格したことを分かち合いたかっただけかもしれません。
しかし聴き手側に「こういう種類の話は自慢だ」という思い込みがあると、自慢していなくても自慢しているように受け取るでしょうね。
成功体験談などを読む場合も同じです。
本のレビューで時々目にするのが
「著者の自慢では?」というもの。
読み手側の思い込みによって自慢しているように感じてしまうのですね。
私はその著者さんたちの本から多くを学んでおり、自慢していると受け取ったことはありません。
結局人は自分のフィルターを通して、聴きたいように聴く、読みたいように読むのです。
自分の解釈で、相手の言いたいこと、伝えたいことを曲げてしまうというか。
相手の話が本当に「自慢」のこともあるでしょうが、
そうではなく「分かち合いたい」と言う場合。
「自慢なのね」と切り捨ててしまうのって、心を閉ざして
「あなたの話は聴きたくない」
「あなたとは分かち合いたくないのよね」と相手を拒否しているように感じます。
覚醒体験は「自慢しているように感じる」と受け取られるよりも
「変な人だ」と思われる方が多いかと。
それで困ることはないのですが、他は「立派な人」「人格者」と思われることもあります。
そうではないんです。
心の中にわいてくる感情は自分で起こしているのではありません。
その時その時、関わっている人との感情の交流の中、あるいは過去のインナーチャイルドの傷がうずく中で「ぽん」「ぽん」とわき上がってくるに過ぎないのです。
「あ~、この人の世話をするのはイヤだ」とか
「こんなめんどくさいことやりたくない」とか
「働いている意識ナシでお金を稼ぎたい」とかフツーに思います。
覚醒体験をしたからといってその状態を保持しているかというとそうではないです。
大きく変わったことの一つは「エゴや欲求を認められるようになったこと」でしょうか。
宇宙意識で生きていく状態は、他人や社会のために、無理せずに貢献できている状態です。
多くの人は他人のために自己犠牲の気持ちで働いているかと思いますが、自分を先に満たしていないのに他人のために働くからしんどいのですね。
「私、全然満たされてないのに。なんで我慢ばかりしなきゃならないの?」って心の深い部分で感じているから。
まずは自分。
そのためにはエゴや欲求を見ないフリをするのではなく、ちゃんと認め、心の抵抗が少ない範囲でちゃんと叶えてあげることなんですよね。
他人に優しくしたくてもできないのは、自分に優しくしていないからなのです。
覚醒体験・一瞥体験をしてわかったことは「自他一体」。
「あなたは私、私はあなた」。
ですので、自分に優しくするということは、結果的に他人にも優しくしているということ。
そして自分が満たされたら、自然と他人に与えたくなるもの。
無理してイヤイヤ親切にするのではなく、心から親切にしたいと思えるようになる。
他人に優しくしたら、別の他人からも優しくされます。
出したエネルギーは巡って返ってくるのですね。
結局この世には自分一人、おおいなる「いのち」があるだけ。
それが一人ひとりの人間となって、個別の表現をしている。
分かれているように見えるけれど、本当は同じもの。
他人に心から優しく接する態度は、結局は自分が自分に心から優しく接しているというのと同じなのですね。
今日もお読みくださりありがとうございました。