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体育が苦手な子ども時代。理由を掘り下げてみました。私の体験談

昔は気力に乏しく、いつも疲れていました。

外で気を遣う子どもだったので、友達にも気を遣い、思いっきり遊ぶこともほとんど無かったです。

本当に仲の良い子とは素の自分でいられて楽しめるのですが、他の子と遊ぶ時は楽しいと感じたことはほとんどなく、一人の時間の方が充実していました。

鬼ごっこやかくれんぼをしても、自分がわざと「負ける」ようにしたり。

普通鬼ごっこをする時は本気になって走り回ると思うのですが・・・・。

弟たちと鬼ごっこをする時は没頭できて楽しかったのですが、友達と遊ぶ時はなぜか楽しめないのです。

兄弟と同じ感覚というわけにはいかず、緊張していたのでしょうね。

それからふざけられない

ふざけたり、ちょっかいを出したりできるのは、相手に心を開いているから可能なのですよね。

友達に対して緊張していたので、心が開けず、結果的に遊びが「義務」のように感じ、窮屈だったのです。

鬼ごっこをしていて、実際には走って追いかけたり追いかけられたりしていても、ぎゃーぎゃー騒ぐともなければ大声で笑うことも無かったです。

一応気を遣うので愛想笑いはしていたと思いますが、

相手も私と遊んでも楽しくなかったと思います。

 

同じように体育の授業も苦手でした。

友達の中には勉強は嫌いだけど体育は好きと言う子がいました。

ドッヂボールなどは授業というより「遊び」の感覚なのでしょう。

 

私は運動神経も鈍く、走るのも遅く元々のポテンシャルが低い上に、コミュニ―ションが苦手だったので球技は本当に苦痛でした。

ドッヂボールやサッカー、バスケなど、コミュニケーションが必須になるような球技は

「自分を出せない」

「苦手なので迷惑をかけたくない」

「ボールを持ったら申し訳ない」

気持ちになるのです。

 

これがもし、運動神経が良かったら、「私の活躍でチームに貢献したい」などと思うのかもしれません。

あるいて運動神経は良くなくても、心を開いてただただ楽しむことができたら、ボールが回ってきた時に「やった!」と思えるのでしょう。

 

私の場合はボールが回ってきたら「私が持ってたら迷惑をかけるので、さっさと仲間にパスせねば」という気持ちでいました。

ボールが回ってくるのは気が重いのです。

かといって避けてばかりで1回もボールを触らないのも、わざと逃げているのがばれるのでイヤでした。

ですので取りに行くフリ、動いているフリはするのです。

 

運動神経が鈍いことはみんながわかっているのでめったに私にはパスが回ってこないのが幸いというか、悲しいというか。

サッカーにしろ、バスケにしろ、ボールが来た際にはほんのちょっとボールに触るだけ。

ある程度の距離を蹴り続けるとか、ドリブルをし続けるとかは全く無く、すぐに誰かにパスしておりました。

 

ゲームに没頭するのでもなく、早く終わってほしい気持ちでいました。

少しでも貢献できた時は嬉しいのですが、そんな奇跡はめったに起こりません。

 

体育が苦手

特に球技が苦手なのは

運動神経の問題というより、心を開いているかどうかの問題だとわかりました。

以下の本に似たような内容が書かれてありました。

 

どうしてクラスメイトの前で緊張してしまうのか。

心を開いて楽しむことができないのか。

 

「できない自分は受け入れてもらえない」

「迷惑をかけてはいけない」

 

居場所の無い感覚というんですかね。

自分を出せないんですね。

いやいや、球技で活躍できないということは、無理にできるふフリをしていないじゃないか。

だから運動神経が鈍いという素の自分を出せているのでは?

と思うかもしれませんが、

「運動神経が鈍くて体育の授業に参加するのがイヤ」

というのが本当の気持ちです。

体育に参加しない、見てるだけという態度を示せたら「ありのままの自分」を出せているということ。

あるいは、「上手だったら私も楽しめるのに」

という気持ちなら参加して楽しみたいということ。

遠慮せずに下手なりにガンガン攻めて楽しむこと態度が「ありのままの自分」です。

 

参加したくないと思うことが多かったのですが、その奥の本当の気持ちは

「私も上手だったら良かったのに」

「みんなと一緒に楽しみたい」

だったのかなと思います。

 

鬼ごっこも同じです。

本当は本気になって遊びたいのに、自分を出せないから窮屈に感じてしまう・・・。

 

自分を出す。

自分を表現する。

 

これらが怖いのは、否定された時に傷つくのが怖いから。

その場が安心安全と感じていないから。

危険だと感じているから。

 

今でも少しあります。

こうやってブログを書くのは平気なのですが、別の分野ではまだ自分を表現することに対するブロックが少しあるように思います。

 

「自分は間違っていて、他人が正しい」

「私の言いたいことや私の気持ちは誰もわかってくれない」

「結局私の欲求や希望、深い部分の本心本音は受け入れてもらえない。その理由は権威がないから。影響力が無いから。

わかりやすい肩書や職業の人、つまり権威や影響力がある人の意見は間違っていても「正しい」と見なされがち。

それとは逆にエネルギーが弱小な人が「正しいこと」を言っても「それは違う」と言われることが多い。

結局人に影響を与えられるのはエネルギーが強くて自己主張できる人。

言論の中身ではなくその人の印象なのだ、大衆が反応してしまうのは。」

 

怒りと悲しみがわいてきた。

気づきが深まる。

そう、親に行きつくのだ。

親も同じだった。

私の欲求や希望、気持ちを受け止めてくれるのではなく、

世間体や他人の目を優先していた。

人からどう見られるかが大事で、私がどう思っているかは後回し。

 

「私はずっと後回し」

 

その場にいることすら気づいてもらえないような感覚を抱いていた。

 

保育園の時も小学校低学年時代も、外でおとなしいことを親に注意された。

親の希望としては積極的で友達もそこそこ多い子が理想だったのかもしれない。

 

体育が苦手という内容でしたが、得意な絵であってもわざと下手に描いたりして

「自分を表現してはいけない」

「私は後回し」

「楽しんではいけない」を体現していたように思います。

 

関連記事:メンタルブロック。自己アピールできず遠慮してしまう。私の体験談

今でも少しブロックは残っていますが、当時に比べたらずいぶんと生きやすくなりました。

別世界のようです。

 

今日もお読みくださりありがとうございました。

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