不足をみる存在「親」と充足をみる存在「おじいちゃん・おばあちゃん」私の場合
自分の心が外の世界に反映されています。
自分を知るには、起こった出来事をどう受け取ったかを探るとわかります。
家族、学校、地域社会、会社、所属団体・・・。
メンバーが変わっても、大体同じような「役割」を別の人が担っていたりしますね。
例えば「お前のこういうところがダメだから、もっとこうしなさい」と指摘するダメ出し役。
つまり「不足を指摘する人」。
親だったり祖父母だったり、学校の先生だったりします。
私の場合は幼少期は「親」だったでしょうか。
今はずいぶんと変化しているので、親は不足を見る存在ではないのですが、昔はそうだったように思います。
そして祖父母は存在を受け止めてくれて、なんでもゆだねられ、リラックスできる存在。
このような場合、不足を指摘する役が「親」、
充足の部分をみてくれて存在を認めてくれる役が「祖父母」となります。
親はとにかく、安全に生きていくことを重要視しています。
祖父母はもっと自由に冒険させてくれますが、彼らもまた、若い頃は自分の子供には不足を指摘する存在だったかもしれません。
あくまで私の場合ですので、人によっては逆のこともあるでしょう。
不足を見る人の前での心理
不自由
認めてほしい
好かれたい
リラックスしづらい
機嫌を気にする
怒られないように行動する
機嫌を損ねないように行動する
やりたいことを自由にやるのではなく、言われたことをやる(本当はいや)
充足を見る人の前での心理
リラックス
ゆだねられる
ありのまま
自然
自由
何を言っても許してもらえる安心感
実家を出たら親とは離れますし、私くらいの年齢であれば祖父母は高齢なのですでに亡くなっているという人も多いかと思います。
結婚したり就職したりして、元の家族とは別の人間関係の中で生活をしていくことになりますが、その場合でも不足を指摘する役が現れたり、充足の部分を見てくれる存在が現れたりします。
夫だったり、友人だったり、上司だったり、近所の人、病院の先生、看護師さん、ママ友、趣味の活動で知り合った人・・・。
自分に対しての認識が変わらない限り、大人になって新たな人間関係の中にいたとしても、幼少期と同じような問題で(事象のことではなく、どのような感情体験であるか)、心が揺れるということを繰り返します。
逆に、十分に愛情を感じていて、満ち足りた充足の感情や、自己受容の感覚が深ければ、そのような体験を新たな人間関係によってまたもたらされるということになります。
どちらか一方だけということはなく、不足と充足、どちらも体験するのが普通です。
人間関係や環境が変われば役割も変わることも
家庭では「不足を指摘する役」の親だったとしても、職場では「充足を見る役」を担っていることもありますね。
本人たちは無意識なので、本当に不思議なのですが、その家庭にはその家庭の布置というものがあり、それを家族全員でバランスを取りなが表現しているのでしょう。
ファミリーシステム。集団の力学。これについてはまた別の機会に。
読んでくださりありがとうございました😊