今ここ、目の前の人や出来事に心を開いて接していく・・・。
とてもシンプルで私たちが最も自然でいられる状態です。
心が軽やかでらく。
無理しなくてもよく、人生がスムーズに流れていくようになります。
本当はこの状態が普通であり自然であり、皆に元々備わっている状態です。
このことを知ったのは28歳の生死をさまよった体験を通してでした。
それまでは知らず知らずのうちに、目の前の人や出来事、自分自身に対して「ウソ」をついていることが多かったのです。
表面上は問題なく、うまく行っているように見える。
けれど本当に意味で誰かと心が通じ合った体験ってあっただろうか?
本当は平気ではないのに、平気なフリをして、自分でも大丈夫と思い込んでいて、私の心に誰も触れることがないよう当たり障りのないようにやってきたけど、それって生きていると言えるのか・・・?
28歳の時の深い気づきにより、それまでのそんな生き方に愕然とする自分がいました。
周囲には人間があふれているのに、ほとんど誰とも心を通わすことなく生きてきたということに、深い罪悪感を感じました。
心を開いて生きるということを知らなかったことに対する罪悪感。
誰のことも信頼せずに生きてきたこと。
人間は誰でも内面深くを探ると「答え」に辿り着くのに、自分を信頼していないがために、そのことを活用してこなかったこと。
宗教的な気づきは至福を感じる時間の方が圧倒的に多かったのですが、この時の気づきは「地獄」に堕ちるような感覚でした。
ただただ正直に素直に心を開いて接する。
これだけで良いんだ、なんだそういうことだったのか、こんなに簡単なことだったのか、と思えたのですが、これは死に直面してやっと気づいたことです。
しかし年月が経つにつれ、ある程度はまた「ウソ」「取り繕い」が戻ってきます。
それは長い年月そうやって生きてきたのが当たり前だったので、「ウソ」が「ウソ」とわからなかったりするのです。
深い気づきの体験があったとしても、以前の習慣が根強く残っているため「目の前の人に何でもかんでも正直に言えない」状態を再体験するのですね。
それでも、前よりはずいぶんと正直でいられるようになり、生きづらさが大幅に改善されてはいます。
特にスピリチュアルケアの学びや研修では本来の自分が戻ってくる体験を繰り返し、正直な自分で生きられる時間が各段に増えつつあります。
スピリチュアルケアの研修は本当に不思議で、もはや「研修」という枠を越えていて、人生や生き方、自分そのものを問われる「時」と「場」のように感じています。
本当の本当の本当に、この人にこれだけは!!という場合に、伝えることができるのだろうか?
自分の辛い体験を誰かに聴いてほしい、寄り添って欲しいと思う時がありますね。
特定の誰かに聴いてほしいと思う時と、特定の人は思い浮かばないけど、誰かに寄り添ってほしいと思う時があります。
でも怖くてできなかったりします。
言いたいことを正直に言えないのはなぜでしょうか?
怖い。
嫌われたくない。
悪く思われたくない。
傷つきたくない。
相手を傷つけたくない。
傷ついた相手を見たくない。
迷惑をかけたくない。
今の関係を続けたい。
辛いということを悟られると相手の方がもっと悲しむ。
私のことを大切にしてくれている人を悲しませるわけにはいかない。
などなど、自分を守りたいという欲求や、他者への思いやりのことが多いですね。
自分を守りたい、と思ってしまうのはなぜでしょうか。
それは相手が、自分のことを受け止めてくれないのではないか、という恐れや不信感があるからでしょう。
本当に聴いてほしいことを伝えていなくても、私の存在をある程度は受け入れてくれてはいる。それを壊してまで・・・・だったら一人で抱えて耐えていくわ・・・と思ってしまう。
確かに、中には受け止めてくれない人、否定してくる人もいるでしょう。
今まで生きてきた中で実際にそういう人がいたから、「また同じことが起こったらイヤだな」と防衛が働き、自分を守ることを優先し、心が閉じてしまうのですね。
しかしそれとは逆に受け止めてくれる人もいます。
でもそれは伝えてみないとわかりません。
伝えてみないと「受け止めてもらえる体験」に出会うことがないです。
本心を伝えてみて初めて出会えるということがあります。
しかしその行為は勇気のいることです。
それをしないで死ぬまで生きていくことは可能ですが、それでいいのでしょうか?
本当にそれでいいのでしょうか?
顔を合わせる機会はあっても、本当の意味で「相手と出会わない」ということです。
言いたくない、聴いてほしくない、伝えたくない、というのであれば、胸に秘めておくことが本心ということなので、言うかどうか迷うことなく「言わない」以外に答えはありません。
しかし、本当は聴いてほしい受け止めてほしいと思っているから迷うのですね。
相手を信頼していないと怖くてできませんし、「きっとわかってくれる」「受け止めてくれる」「私は人にちゃんと受け止めてもらえる存在なんだ」と期待して裏切られることもゼロではありません。
それまでの体験で拒否されたり、否定されたりしてきた人にとって、また傷つくのかと思うと怖いですよね。
それでも逃げたくないのであれば、「結果は相手が決めること。うまくいってもいかなくても、言いたいことを伝えたい、自分の思いに正直に行動しよう」と思えるかどうか。
どんな結果になろうとも、相手の答えを尊重する覚悟です。相手が出した答えは相手のものであり、自分の存在価値は変わりません。
「伝えたい」「聴いてほしい」という本心に従って行動したら、結果がどうであれ、怖い中でも勇気を振り絞った自分のことを受け止めたいですね。逃げなかった自分に拍手です。
その相手に出会いたかったんだね、と。
今日も読んでくださりありがとうございました。