心が平安であることが平和につながる
マザーテレサの有名な話があります。
マザーテレサがあるとき戦争反対の運動に参加して欲しいと頼まれました。
そこで彼女はこう言ったそうです。
「私は、戦争反対という活動には参加しないわ。
しかし、平和賛成という活動には喜んで参加するから、いつでも声を掛けてちょうだい。」
この話は願望実現でよく言われている「引き寄せの法則」を裏付けるものとして出されることが多いのですが、引き寄せの法則云々ということを抜きにしても、心を平安な状態にすることの大切さを説いていると私は思います。
「戦争反対」という言葉の印象と「平和賛成」という言葉の印象、あなたはどう感じますか?
「戦争反対」という当たり前で正しいことを言っていますが、何か冷たいものを感じないでしょうか。
人を攻撃するような、人を「お前はダメだ」と責めるような、そんな感じを受けます。
なんだか人を否定している、さらには存在を否定している印象を受けます。
もちろん、否定の対象となっているのは「人」ではなく「戦争」です。それは分かっているのですが感情がそう感じてしまいます。
それに対して「平和賛成」という言葉はどうでしょう。
同じものを目指すのということに変わらないのに、「愛」を感じます。
今まで間違いを犯してきた人であっても、本当はみな一人ひとりが尊い存在です。
もし、今あなたが許せないと感じる相手がいるなら、その人の心の中はどんな様子か想像できますか?
トゲトゲしたものを抱える感じはしませんか?
幸せではありませんよね。
「愛」と「トゲ」どちらが多く占めていますか?
自分が幸せであってこそ、家庭が平和になり、周りの世界へと広がって行きます。
その行動の動機は?平安な心からそれともうっぷん晴らし?
普段私たちは自分の心がどんな状態なのか、どんな感情を抱いているのか意識することは少ないのではないでしょうか。
このブログを読んでいる人は心のことに興味を持っている人が多いとは思いますが、
あなたの家族や友人はどうでしょうか。
自分の心の状態をいつも意識しているっていう人は少ないと思います。
そんな日常を送る中、誰かの行動が気に入らなかったり、他人の態度が許せなかったりということが多々あります。
特に普段誠実でやるべきことはきっちりこなす責任感のあるタイプの人の中にはずるい人やサボってばかりの人を見ると腹が立つなんてこともあるでしょう。
このような日常の些細なことでなくても、例えばある犯罪を犯した加害者に対して当事者でなくとも許せないという憎しみの感情を抱いてしまうことは自然なことでもあります。
戦争で何の罪も無い人が殺されていく現状に腹が立つのも自然なことです。
怒りは自然な感情で、それが人や社会のために役に立つ場合は、愛や慈悲の心が動機になっているといえます。他者の平安、社会の安心や平和につながるということです。
しかし、怒りが自分のモヤモヤした感情を発散するため、うっぷんを晴らすため、行き場のない感情のはけ口となる場合は「憎しみ」が動機となっていて平和や幸せにはつながりません。
思っているあなたの心の状態はどんな様子でしょうか。
「愛」「平安」とはちょっとかけ離れているかもしれません。
イライラしたり腹が立ったり、「けしからん!」と他人を裁きたくなったり、「攻撃」の方向に向かっていませんか。
心が「幸せ」な状態でしょうか。
今まで本を読んだり、サイトである人の主張を知ったり、知人と話す中、あるいはテレビでの要人の発言に対して「どうしてあの人は正しいことを言ってるのに不快な気持ちになるんだろう?」という違和感を感じることがありました。
それはその正しいことを言っている人の心が「攻撃」の方向を向いているからなのだと気づきました。
主張していることは正しいのです、
でも、「なぜか違和感を感じ、100パーセント賛同することは出来ないな。」と思ってしまうことってあるのです。
がんばって自分を磨き、人格もすばらしい人であるがゆえに他人の欠点が許せなくなってしまう人は多いかと思います。自分はきちんとしているがゆえに他人に厳しくなってしまうのです。
「私は世のため人のため頑張ってるのよ。それなのにあの人は・・・・!」
これはある意味わなのようにも感じます。立派になろうとしている人が試されているわな。
そこで自分の心に「あの人はけしからん!」というトゲトゲしたものを抱いてイヤな気持ちになるのは自分にとっても辛いことです。
どんな優しい人であっても怒りの気持ちや攻撃したいという気持ちを時には抱くでしょう。
それが一瞬のことで、すぐにそのような気持ちから解放されるのであれば、問題はないと思います。
そのように感じる感性は大事ですし、攻撃された側、被害者側の話を聴いている時などは共感して同じような気持ちにならなければ、相手は「わかってもらえた」と感じることもないと思います。
「一瞬そういう気持ちになること」は、むしろ健全だと思います。
ここで私が言いたいのは、「その気持ちを手放すことができずにとらわれ続けてしまう状態」についてです。
心が平安であるというのは「あの人はけしからん!」と裁き、それにとらわれ続けることではありません。
他人に対して腹が立つという気持ちそのものは沸きあがってくるものなのでどうしようもないです。それはそれで、「ああ、腹が立っているな」と自分の気持ちを認める。
その後、他人に対して「愛」を与えたいのか、「憎しみ」を与えたいのか自分の心を見つめ気づきにつなげることが大切です。
「けしからん」行動を起こした人物の心の中はどのような状態だと思いますか。
トゲトゲしたものが多いでしょうか、愛が多いでしょうか。
相手の心にトゲトゲしたものが多いからといって自分も同じようにトゲトゲしたものをぶつけてしまえば戦い合い、攻撃し合いと同じことです。
憎しみが連鎖的に広がっていくだけです。
怒ってはダメということではない。怒りは感じていい
怒りたい時に怒ってこなかった、怒ってもいいと自分に許してこなかったのかも
「どうして攻撃の心が自分の中に芽生えたのか」
「どうして私は腹が立っているのか」
「自分の中の何に反応しているのか」
「過去のどの出来事に反応しているのか」
「まだ癒されていない部分、受け入れてほしいと叫んでいる部分は何なのか」
人を攻撃するような心が芽生え、それにとらわれるということは、おそらくあなたも過去誰かに傷つけられたことがあって、その傷がまだ癒えていないのかもしれません。
だから自分と関係ないようなことでも、過剰に反応し、自分のことのように「〇〇反対!」などと行動してしまう。
心の中をもっと平安な状態にしていいのです。他人がトゲトゲしていても自分の心は平安で愛に満たされる状態になることを自分に許してもいいのです。
一見正義感の行動に見えても、人への攻撃というのは、受けた傷をそのままにしてきたからではないでしょうか。
本当に怒りたかった時に怒れなかったのかもしれません。
そうであるならば怒りを出しましょう。自分でじっくり心をみつめ、その怒りを受け止めましょう。
傷ついたということを、認めるのが怖かったのかもしれません。
誰かに言ってもわかってもらえなかったからかもしれません。
傷ついた後、だれも辛かったねと言ってくれず、あなたにも悪い所があるなどと言われたからかもしれません。
本当は傷ついていて、誰かにわかってほしかったのに、その気持ちにふたをして平気なふりをしてきたからかもしれません。
こんなに傷ついているのに自分の傷が癒されることを許していいなかったのかもしれません。
幸せになっていいと許していなかったのかもしれません。
本当はすばらしい自分なのにそれを受け入れていないからかもしれません。
いくら頑張っても報われないという失望を感じているからかもしれません。
生きていくエネルギーが人への攻撃、人を責める行動になってしまうということは、それだけ大変な人生を送ってきたということだと思います。なのに誰もそれを認めてくれない、わかってくれない。
その気持ちの奥にある、本当に辛いことは何なのか、本当に苦しかったことは何なのか。
根底にある「核」となっている苦悩に向き合う作業はしんどく時間もかかるかもしれません。
一人で向き合うことも可能ですが、限界もあるかと思います。じっくりと一緒に向き合ってくれる友人や専門家を頼ってほしいと思います。
まとめ 怒りの感情が発生した意味を自分なりに見つめてみる
人間の感情は、ゴールに導くためのナビのようなものです。
わき起った感情、それが自分のエゴのためであるか、他者や社会のためであるか見つめてみましょう。
自分のうっぷんを晴らしたいというエゴが動機であれば、自分の心の癒されていない部分が助けを求めているのかもしれません。
他者に怒りをぶつけたり、責めたりという行動を起こすのではなく、何がそう思わせるのか心の声に耳を傾け、聞き入れられなかった感情を解放することです。
怒りがエゴからではなく真の正義からの場合、勇気をもって他者や社会に働きかけることが大切です。
社会に平和が広がっていくためには、まずは自分の心が平安であること。
幸せな状態というのは、エゴから解放されている状態です。
エゴから解放されているためには、自分の心に正直であること。
「正しい人であろう」「立派であろう」と怒りや心の傷を出さないように押さえつけ感情を解放せずに我慢ばかりしていると、ますますエゴに巻き込まれ、気持ちもしんどくなっていくというパラドックスです。